カテゴリ:鎮魂のイストワール( 2 )

千年喪に服せ

 
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 千年に一度の災厄に遭遇し、数万年にも及んで毒を撒き散らすプルトンの火が燃えさかることとなった災害にまみえながら夏休みだと? ゴルフ場で芝刈りだって? あきれかえって、太ももを刺されても「痛いよお、痛いよお」と歯茎を剥き出して嗤いたくなる。
 ボンボンだということは初めからわかっていた。しかし、ボンボンのうえにボンクラだったとはな。最高権力者がこの体たらくでは民草がポンコツボンクラヘッポコスカタンだらけになるのは当然だ。
 民スのときは野田土左衛門佳彦に象徴されるように、ただ単に愚鈍なだけだった。ジ民に取って代わってからは愚劣にして卑劣と相成った。この結果を生んだのはほかでもない。先の選挙でジ民が「歴史的勝利」を果たすに至る投票行動乃至は不投票行動を行った国民である。そして、全員がその結果に対する責任を取り、ツケを支払わなければならない。それが間接民主主義の冷厳にして冷徹なルールである。

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 では、いかなる責任の取り方、ツケの支払い方をするのか? 話は簡単だ。餓死大国の汚名を着て、その国の国民として生き、死ぬのだ。「あのとき死んでおけば」という阿鼻叫喚の生き地獄をリアルに経験すること。保守修繕のされない道路は荒廃し、橋脚は崩壊し、放射性物質によって汚染された国産食品あるいは農薬という名の毒薬にまみれた輸入食品を喰い、体内に、そして胎内にどんどんじゃぶじゃぶと猛毒の化学物質と放射性物質を蓄積させて生き、そして死ぬのだ。もがき苦しみ、のたうちまわり、むごたらしく。せめてできることは千年先にも届くような、深い喪に服すことである。嘆きの狼となって鎮魂の荒野を疾走すること。
 浮かれるな。上っ調子になるな。上滑るな。われわれ自身の手による「嘆きの壁」を築け。そして、千年喪に服せ。服喪の季節を千年生きろ。
 あなたが今口に運んだ「お気に入りのパン屋で買ったお気に入りのパン」は、魂にまで及ぶ洪水に飲み込まれて死んだ者たちが千年経とうともひとかけらさえ口にできないパンである。痛切にして痛恨のパンである。

 No Pain, No Gain, No Life. 痛みのパンなくして前進なく、人生なし。

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by enzo_morinari | 2013-08-26 02:13 | 鎮魂のイストワール | Trackback

雨とラタトゥイユと彼女の巡礼の年@もう後戻りはできない。

 
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夏の初めの朝、私は鎮魂と慰藉と慰撫のためにスパゲティ・バジリコとスタン・ゲッツをアウフヘーベンする。すなわち、スパゲティ・ゲッツ。 E-M-M


驟雨の午後。激しい雨が降りつづく午後。静かに物語と向きあう。物語の主人公、ミス・ラタトゥイユは悲鳴のような軋んだ機械音をあげるコインランドリーの乾燥機の前に呆然と立ちつくしている。住宅街の路地裏のひっそりとしたコインランドリーにいるのは彼女だけだ。ミス・ラタトゥイユは土砂降りの雨音を聴きながら、Tシャツやジーンズや靴下やストッキングやパンティやブラジャーが踊り狂うのをみつめながら物語のページをめくっている。彼女が読んでいるのは村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』だ。初版本。代官山の胡散臭い書店に徹夜で行列して手に入れた本だ。

洗濯物のダンスは彼女の日常の不全感を象徴してでもいるのか。不規則な回転をつづける彼女の日常の群れは円形の窓に現れては消え、消えては現れる。

「ハルキンボヴィッチの穴」と突然彼女は呟く。「そして、わたしはBitch。今夜も名も知らぬ男たちに抱かれるDaughter of a Bitch。あばずれ女の娘」

ミス・ラタトゥイユが『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読むのは2013年4月12日の午前零時42分42秒からきょうまでに153回目だ。彼女は1日に2回、ほとんど欠かさずに『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んできた計算になる。1回少ないのは4月の第4日曜日の午後、高校の同級生であるかつてのボーイフレンドとずっとセックスしていたからだ。

このことはいったいなにを意味するのか? ミス・ラタトゥイユが「閉じられたセックス」を2ヶ月していないということだ。彼女は毎日、仕事としてセックスするが、それらは「開かれたセックス」であり、快感も絶頂もない。彼女の不幸は2ヶ月前にほぼ12年ぶりに行った「閉じられたセックス」が予想に反して彼女に快感と絶頂をもたらさなかったことである。

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その日、ミス・ラタトゥイユが袖を通したMAX MARAの白いシャツは、正確に12年前に青山のMAX MARAで買ったメンズのシャツで、当時の彼女がなぜそのような趣味だったのかについては、彼女の死後、ごく限られた4人の友人によってひっそりと語られるていどのつまらぬ問題である。おそらく、ミス・ラタトゥイユはユニセックスな雰囲気に憧れてでもいたのだろう。ちょうど『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の主人公である多崎つくるのような人間に。夜の海のように生き、死ぬことばかりを考えて暮らし、洗濯することを心の底から愛し、極力自炊し、生ぬるいビールが満たされた25メートル・プールで泳ぎ、自分の肉体をコントロールする男に。友だちは決して多くは持たず、セックスの相手にはそれほど不自由していない男に。

ミス・ラタトゥイユは「女」というジェンダーで生まれて以来、多崎つくるのような人間に憧れていた。そして、ミス・ラタトゥイユは自分が多崎つくるのような人間になりたかったのだと気づく。西麻布のビストロ通りにある小さなバーで村上春樹にそっくりのソバージュ・カワウソに口説かれた夜からずっと封印していた思いに。

ミス・ラタトゥイユは思う。太陽の光にさらされると誤差と誤謬と誤解のないゴビ砂漠の砂粒になり、風が吹いたら音もなく吹き飛んで消えてしまいたかったのだと。そして、最後はポルシェ911タルガを疾走させて激突死するジェームス・デューンになりたかったのだと。

多崎つくるは「糾弾と指弾と苦痛と苦悩の日」の16年と3日後に彼の巡礼の旅に出発する。ミス・ラタトゥイユが巡礼の旅に出るには、あとどれくらいの歳月が必要なのだろうか? もう後戻りはできないのだが。

私はミス・ラタトゥイユの困難と困憊とその小さな不幸に彩られた悲劇の行く末を思って、まともで鎮魂的で追悼にふさわしい料理をつくることにした。

寸分の狂いもなくおなじサイズに食材を刻み、エクストラ・ヴァージンのオリーブオイルと青森産のニンニクで正真正銘のアーリオ・オーリオをつくったあとに、野菜を炒める。そして、ポモドーロ・コストルート・フィオレンティーノの粉砕物と青森産ニンニクの色と味が隅々にまで行き渡るように煮込む。煮込みつづける。

私と彼女と彼女の巡礼と贖罪のためのラタトゥイユ。雨はまだ降っている。降りつづいている。『日曜日のうた』まであと何回ラタトゥイユをつくればいいのだろうか?

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by enzo_morinari | 2013-06-26 19:03 | 鎮魂のイストワール | Trackback