カテゴリ:うつむきかげんのショータイム( 11 )

うつむきかげんのショータイム#臨時 アカプルコ・ゴールドの金ピカな夜(試験放送中)

 
c0109850_1052469.jpg

 


 
Make the world go away. And get if off my shoulder H-C

現在、下記「番組アドレス」にて試験放送中。iTunes Smart List『アカプルコ・ゴールドの金ピカな夜』を配信。


USTREAM配信:2013年06月22日午後6時本放送スタート

番組タイトル:エンゾとガジンの『うつむきかげんのショータイム』

番組アドレスhttp://ustre.am/10wZP

総論テーマ:サルトルから競馬から体位からスパゲティ・バジリコからIPPON GRAND PRIXまで

各論テーマ:スパゲティ・バジリコとの訣別/「ハルキの呪縛」から脱却すると世界の風通しがずっとよくなることについて/25メートル・プール一杯分のビールを飲んだら痛風になった/「痛み」は世界を喰い破るための強力無比なドスである/1973年製のピンボール・マシンより万延元年のフットボールのほうがおもしろい/羊より犬だ/村上春樹の今後の処遇について/取りすました教養主義への批判並びに死刑宣告/退屈きわまりない常識人への批判並びに死刑宣告/強欲卑劣な守銭奴吝嗇家への批判並びに死刑宣告/時事問題についての床屋政談並びに浮世風呂談義/表現論/ここ最近の音楽について/別府雅人はいかにして「酷寒のミル・プラトー」から帰還し、カッコーの巣を営巣し、ルイスウェイン・キャットを手なずけたか?/森鳴燕蔵の切断面に関するいくつかの言明/ルサンチマンという名の「生への意志」について(その「強度」をめぐって)/言語にとって快とはなにか?/虹子ちゃんインタビュー「森鳴燕蔵によってもたらされたすべての労苦についてぶっちゃけてください」/世界にただ一頭のミニチュア・セントバーナードのポルコロッソの「呪い」について本人からひと言/ソンブレロ銀河と鷲星雲とステファンの五つ子のここ最近の動向とメシアン16(M16)についての重大情報/「宇宙を支配する巨大な意志の力」とはなにか?/異界と繋がる「パイプ」について
  
[PR]
by enzo_morinari | 2013-06-21 10:54 | うつむきかげんのショータイム | Trackback

うつむきかげんのショータイム#臨時 アカプルコ・ゴールドの金ピカな夜

 
c0109850_16504822.jpg


 
Have You Ever Seen The White Rain in The Acapulco Gold Glitz Night?

USTREAM配信: 3013年06月22日午後6時〜

番組タイトル: エンゾとガジンの『うつむきかげんのショータイム』

番組アドレスhttp://ustre.am/10wZP (試験放送中。しかし、おそらく無音。ユーストで放送するのは初めてゆえに色々実験をしています。)

総論テーマ: 最初で最後の別れを告げあうアカプルコ・ゴールドの金ピカな夜

各論テーマ: 「ハルキの呪縛」から脱却すると世界の風通しがずっとよくなることについて/25メートル・プール一杯分のビールを飲んだら痛風になった/「痛み」は世界を喰い破るための強力無比なドスである/1973年製のピンボール・マシンより万延元年のフットボールのほうがおもしろい/羊より犬だ/村上春樹の今後の処遇について/取りすました教養主義への批判並びに死刑宣告/退屈きわまりない常識人への批判並びに死刑宣告/強欲卑劣な守銭奴吝嗇家への批判並びに死刑宣告/時事問題についての床屋政談並びに浮世風呂談義/表現論/ここ最近の音楽について/別府雅人はいかにして「酷寒のミル・プラトー」から帰還し、カッコーの巣を営巣し、ルイスウェイン・キャットを手なずけたか?/森鳴燕蔵の切断面に関するいくつかの言明/ルサンチマンという名の「生への意志」について(その「強度」をめぐって)/言語にとって快とはなにか?/虹子ちゃんインタビュー「森鳴燕蔵によってもたらされたすべての労苦についてぶっちゃけてください」/世界にただ一頭のミニチュア・セントバーナードのポルコロッソの「呪い」について本人からひと言/ソンブレロ銀河と鷲星雲とステファンの五つ子のここ最近の動向とメシアン16(M16)についての重大情報/「宇宙を支配する巨大な意志の力」とはなにか?/異界と繋がる「パイプ」について

c0109850_16512328.jpg

 
[PR]
by enzo_morinari | 2013-06-19 16:51 | うつむきかげんのショータイム | Trackback

うつむきかげんのショータイム#9

 
c0109850_1392096.jpg

 
人生は本当のことに気づくには短すぎ、本当のことを待つには長すぎる。 E-M-M


團藤重光研究中 ガジン 2013-06-03 17:46
オレをネタにするのやめれ。ガラクタ並みの知性と教養で悪かったな。
勧告に従って團藤重光の「刑法綱要総論」と「刑事訴訟法概説」を研究中。憲法学は長谷部恭男で一応押さえてあるのだが、主権問題はホッブスまで遡って再考だな。今はアガンベンに一番関心があるのだが、法の問題は「ホモ・サケル」とも切り離し得ぬ。
仕事が次々と降ってくる。静養中だというのに相変わらず人気者のオレだ。


五十の手習いはおねいちゃんの肌に食い込む赤い麻縄のようによい。 自由放埒軒 2013-06-03 19:25
五十の手習いもまたよしだ。しかも、相手は團藤重光。そして、国家(=権力)、剥き出しにされた生の被疑者、被告人、そして監獄(あるいは「収容所」)だ。敵に不足はあるまい。問題は「憲法の学び方」だ。なにが厄介と言って、憲法くらい厄介な法律はない。すべての法の中の王でありながら、実質的にその貌を現すことはほとんどない。「憲法訴訟」にしたところで、バカ左翼のイベント、お祭り騒ぎにすぎないしな。
憲法を本気で学び、そのメカニズム、歴史、哲学を身につけようと言うなら、腹をくくってかかれよ。下手をすると泥船、泥沼、底なし沼に足を踏み入れることになるからな。「法の先達」としてアドバイスするなら、吉本隆明の『共同幻想論』をメルクマール、あるいは水先案内とすることをすすめる。『共同幻想論』であらかたの国家と市民社会、封建社会、工業社会、脱工業社会、ネットワーク社会、原始社会を解読し、解釈し、記述できる。吾輩は実際にそうした。いい選択だった。健闘を祈る。ついでに、法科大学院に入って「司法試験」を受験してみたらどうだ? 暇つぶしにはちょうどいいはずだ。誤解をおそれずに言うならば、「司法試験」なんぞ、どうということのないただの「資格試験」だ。よほどの馬鹿でなきゃ受かる。短答式、論文、口述(口頭試問)。厄介なのは口述だ。暇を持て余した試験官の爺さんどもが泥船に乗せようと虎視眈々、スパンキング・ラケットを後ろ手に隠し持ち、ぶっとい麻縄を糾いながら待ち構えていやがるからだ。その泥船に乗ったが最後、母港に帰還することは諦めなければならない。不合格ってことだ。


バカにしてんの? ガジン 2013-06-03 19:25
そこまでおちょくらんでもいいだろう。お勧めの本、真面目に研究してんのによ。


コメ見忘れた ガジン 2013-06-03 19:31
なんだ、ちゃんとしたレスもあったのね。見落とした。法学は確かに難しいよ。長い旅になりそうだ。記憶力減退著しい昨今、司法試験挑戦は無理だろうが。「ジュークの春」はとても良かった。とくに結末が。ああいうの、もっと読みたいね。


質問 ガジン 2013-06-03 20:03
自民党の憲法改正草案についてどう思う?片山“ヒラメ顔”さつきが「天賦人権論を再考してみました」としたり顔でほざいていたが、アーレントも読んだことねえのかとオレはあきれた。所感をうかがいたい。


ヒラメの縁側はうまいが 自由放埒軒 2013-06-04 05:43
「自民党の憲法改正草案」と片山ヒラメか。鬱陶しいのがふたったり。手頃な片山ヒラメから言うならばほっときゃ消えるような「一山いくら」の有象無象というくくりで十分だろう。アリン・スエツングースカのようなもんだ。その言説も経歴も含めてな。
財務省時代の片山ヒラメについてやつの同僚だった木っ端役人の何人かに話を聞いたが、共通しているのは「あの馬鹿女」ということだ。呵々。片山ヒラメがなにを言おうがしようが耳には入らない。入れない。興味もない。時間の無駄だからだ。
性根の卑しい勘ちがい馬鹿女。それが片山ヒラメに関する必要充分な吾輩の結論である。今の段階で片山ヒラメは Mental Disorder の領域にあるというのが吾輩の見立てだ。主たるディアグノスは「双極性障害」と「パニック障害」。この点について片山ヒラメがどのように崩壊していくかだけには若干の興味がある。はっきり言えば片山ヒラメは選挙どころの状況にはないってこったな。
天賦人権? 笑わせやがらあ。片山ヒラメの脳味噌時計のテンプは完全無欠に故障している。メンテナンスしても精度は戻らないレベルだな。この期に及んで、なぜ、なんの思惑で自然権について言及するんだ? 思いつきか、「天賦人権」という中学生レベルの領域のことしか思い浮かばなかったか。両方だろう。それにしても泣けてくるようなお粗末さだ。まあ、この国の政治屋どものオツムテンテンのレベルというのはそんなもんだってこったな。
「自民党の憲法改正草案」について言うなら、あれはそこそこよくできている。ただな。安陪のぼんぼんだからな。コリアン・マネー、統一教会マネーがたんまり流れ込んでいるやつが頭にいる徒党のアレだしするから、実現に向けての話になると要注意だろう。紐付きの輩はロクなことをしないものと相場は決まっている。
総論、総体的な「憲法」「最高法規」の問題とは別に、個別具体的な「日本国憲法」にまつわることで押さえておくべきは、その成立過程(早い話が進駐軍、GHQの毛唐どもがどういった思惑、たくらみで「新憲法」に手出し口出ししたかということ)、憲法改正についての規定(日本国憲法第96条)、「制度、機関としての天皇」の解釈だろう。あと「前文」な。日本国憲法の「前文」の文章、文体はひどいもんだが底流には瞠目すべき哲学の一端がある。日本国憲法全体の構造、枠組みが孕む矛盾、非論理性も押さえておくべきだ。「国民主権」を謳いながらなぜ第一章に「天皇」がくる? それは物語の開き方としておかしいだろう。まあ、あれだ。まず、前文と103ある条文のすべてを丸暗記することをすすめる。
記憶力の衰微は表現者にとっては「死」だぞ。アーネスト爺さんがファンドシエクル銃の銃口を咥えたのもそこだ。


合衆国憲法修正第13条は万引き爺さんを救えない。 自由放埒軒 2013-06-04 07:24
ガジンが中国語の勉強をしているときにつけていた大学ノートの映像が記憶庫から出てきたが、「学ぶ」という姿勢、スタイルについて言うならばガジンは「司法試験」向きだ。
問題はふたつ。エンデュランス、耐久性、持続力についてはどうなんだ? 自己認識としては。司法試験突破のカギは持続力が4割、臨機応変の応用力が3割、残る3割が記憶力だ。
ふたつめは「テクストを読むときに傍線引き、書き込みはしない」ということ。時間の無駄だ。テクストは汚れるし、見づらくなるだけだ。古本屋に売るときも買い叩かれるしな。読む。ひたすら読む。そして、考える。ひたすら考える。そののちに書く。とことん書く。この繰り返しだ。反復と継続。「目次」を見て、その法律に関する全体像がイメージできるようになったら一丁前一人前、「グリップ完了」ということだ。
参考までに言うと、法律を学ぶときのキモは「条文、通説有力説(論点)、判例」だ。この三位一体を押さえておけばいい。法律はリアリズム文学の極北にあるのだから、「自らが拠って立つところ」のことと切り離すことは無意味だ。食いっぱぐれ、喰うに困ってセブンイレブンで1個の握りめしを万引きした爺さんを合衆国憲法修正第13条は救うことも処罰することもできないということだな。


縄師は長距離走者の孤独に耐えられるか ガジン 2013-06-04 10:39
応用力、記憶力にはそれなりに自信があるが、持久力には難アリだな。昔からマラソンは苦手だった。強い意志をもって何かを貫徹するということができない。いつも途中で寄り道し、関係ない路地道にふらふらと迷い込んでしまう。まあ、そこで何か面白いものを発見するという思わぬ効用はあるわけだが。
まだ片隅を齧った程度だが、法学は面白い。これまでとは別種の思考を強いる。助言は肝に銘じておくよ。歯が立たなくなったらまた相談する。


吾輩のギャラは高えぞ。 自由放埒軒 2013-06-04 12:50
本物の一流はすべてお高くつくことを忘れるな。命を差し出す覚悟を決めて払わなけりゃならない「誇りと流儀に関するギャランティ」ほどではないがね。呵々。


オレの株価は東証なみに下落傾向だが ガジン 2013-06-04 14:14
オレとのやり取り、ちゃっかりブログに引用しといてよく言うぜ。あんたには相談せん。いつか「本物の一流」になった男の顔、おがませろよな。奥さんまじえてメシでも食おうぜ。


人生のコンメンタール 自由放埒軒 2013-06-04 15:05
まあ、あれだ。大脳辺縁系ならびに大脳新皮質の性能がそこそこいいヤツとのやりとり、あれこれは気分がいいってこった。そこで問題です。
ガジンとのコメントのやりとりを、

1. ブログで使う。
2. 書籍等のメディアとして出版販売する。

このとき、ガジンは知的財産権に基づく請求権を有するか? なんらかの請求権を有する場合、ガジンはいかなる訴えを起こせるか?

実際の訴状、準備書面、用いる証拠物をここにアップしなさい。管轄裁判所の問題も具体的に。(例:横浜地方裁判所民事7部)


また面倒な問題を… ガジン 2013-06-04 15:43
現時点でのオレの法知識で細かく解答できるわけねえだろ。それを前提に簡潔にこたえると、コメントおよびトラックバックの知的所有権については各ブログサービスによって利用規約上、扱いが異なるようだ。たとえばライブドア・ブログの場合、「利用者が著作したウェブログとそれに付随するコメント及びトラックバックは当該ウェブログを著作した利用者に著作権が発生するものとします」となっている。つまり、コメントおよびトラックバックも利用者=あんたに著作権があるということだ。
まあ、これも「うつむき加減のショータイム」で使われるんだろうが。


新しい文学のカタチ/イマ、ココハ、戦場ダ。 自由放埒軒 2013-06-04 16:01
「イマ、ココハ、戦場ダ。」のわけだが、同時に「新しい文学のカタチ」がその貌を見せつつあるということだ。ネタばらし的に言うと、実はガジンとのこのようなやりとりのかたちは吾輩のクライアントどもとやっていることでもあるのだ。奴さんがた、大よろこびだ。しかも、吾輩にケチョンケチョンにされながらも、少しずつではあるけれども言語表現のスキルがアップしているという副産物もある。元々、大脳辺縁系ならびに大脳新皮質の性能はいい人々であるから、コツをつかむのは早いし、経験、場数を必ず次へのステップとするという性向がきわめて強いので、日進月歩は目を見張るほどである。いつか、頃合いを見計らってガジンにクライアントの何人かをまわす。中抜きなどはない。やったらやっただけのギャランティがガジンの懐に入るという寸法である。投企癖が頭をもたげはじめ、「また別の戦場」に出兵したくなってきている。出兵の際、見送りはいらんが、吾輩の抱えているクライアントを丸投げするからよろしく頼む。視えない銃の引金を引きたくてたまらん。うずうずする。ポコチンの先っぽにも響く。まったくもって業が深いものだ。


アノニマス・ガーデン繁盛記ってわけだ。 ガジン 2013-06-04 16:14
本当に色々考えるよな、あんたは。感心するぜ。取りあえずオレはエルヴィン・スマイルズにゴンチチのマイ・フェバリット・シングスを聴きに行く。奥さんによろしく。
 
[PR]
by enzo_morinari | 2013-06-04 13:09 | うつむきかげんのショータイム | Trackback

Is Anonymous Garden Burning? アノニマス・ガーデンは燃えているか?

 
c0109850_14533936.jpg


アノニマスでありつつ表現を成立させるという実験。そして、新種誕生。
 
そこに喜劇がはじまる ガジン 2013-05-20 06:52
まず、丁寧な批評、ありがとう。
今、困憊しているので上手くまとめられないと思うが、あんたの批評を読んで感じたことを記す。
いちばん刺さったのは「悲劇」ではなく「喜劇」として書くことはできないのか、というフレーズ。あんたは「快楽」というキーワードを使ったが、オレの場合は「病」だな。自身の「病」からどれだけ距離をおくことができるか。「訣別」は不可能だが、おそらくそれが精神の緊張を生み、文体に強度をもたらす。そして、そこに「喜劇」がはじまる、というわけだろう。
たとえばベケット。奴も分裂症者だが、「病」から身を引きはがした故に「ワット」という傑作喜劇をものすることができたのだとオレは考える。
だめだ、意識を集中させることができぬ。続きは改めて書く。


方法叙説 ガジン 2013-05-20 07:28
予備のパソコンでコメ送ったら名前が表示されなかった。阿部公房は「砂の女」しか読んでいない。まとめて読んでみよう。
まあ、「いたち野郎」は破棄だな。中断した時点から白神でのミル・プラトー体験に至るまで、アダチは一気に狂っていくのだが、それを書こうと思ったらいずれにせよ言語は壊れる。小説ではなく、他の方法が要るということは感じていたところだ。ルイス・ウェインの猫は絵画でしか成り立たぬ。
だいぶ目が覚めてきた。ひとまず送る。


承前 ガジン 2013-05-20 08:02
オレの立ち位置は今、非常に微妙だ。「フーコーは度が過ぎる」とインテリの医師はいうのだが、いわゆる精神医学的な治療は最小限しか受けていない。緊急避難的に向精神薬を服用したり、病院のベッドを利用したり、そんなもん。言明されてはいないが、就労不能なんだから仕事は止めて公的扶助で食っていけ、てなとこ。表現を止められるかどうか、ここが瀬戸際だな。才能ないなら止めた方がよろしかろうとは思う。自分のしていることが「仕事」なのか「遊び」なのかさっぱり分からぬが、下らぬ売文も含めてそれで生活をファイナンスしているからには「仕事」なんだろう。アルトーは「思考し続ける権利が自分にあるかどうかが問題だ」と言ったが、オレの場合、「書き続ける権利が自分にあるかどうか」を考えることが肝要だろう。今回、いいきっかけになったと思う。「止められるもんなら止めちまえ」と背中で誰かが言っているが。


表現者は無類の王である。 自由放埒軒 2013-05-20 08:20
かつて、ポンコツ村上龍が「表現する女は不幸だ」と得意満面で言っていたが、吾輩に言わせると「表現しようとしまいと、ヤレる女はいい女であり、幸福の絶頂を味わわせてやる」であり、「表現できる者は最上の幸福と快楽を手に入れている」ということにつきる。
表現の場においては表現者は無類の王として君臨できるわけだからな。いつでも王国を破壊できるし、殺戮も、慈悲もやり放題。殺生予奪の権力はすべて手の内にあって、なにものにもとやかくのことを言われる筋合いもない。吾輩はちょくちょく、いけすかない輩どもを「吾輩世界」においてのたうちまわらせ、もがき苦しませ、むごたらしい死を迎えさせている。


王の権能 ガジン 2013-05-20 08:29
うむ。つまり、だな、あんたの指摘通り、オレは自分の文体が緩んでいることを感じているわけだ。それが才能の問題なのか、精神の緊張の問題なのか、よくわからぬ。「王」としての自覚が足りぬ、ということか? 「王」たるには権利が要るだろう。その権利を自分が手にしているどうか、ということさ。


『マグナ・カルタ』第38条 自由放埒軒 2013-05-20 08:46
たとえば、王、王権、権力、国家といったタームを考えるときに、吾輩はそれらにまつわる「情報」のすべてについて渉猟する。そして、盗む。『マグナ・カルタ』の第38条には「裁判権の保障」のことが書いてある。暇つぶしの「憲法談義」のときにこのことを何食わぬ顔で言説の中にするりと忍ばせてやる。東大の憲法学の教授センセイも眼を丸くして驚く。ことほどさように、この国のインテリゲンチャの「底」は浅く、薄っぺらだってこったな。
王として君臨するためにはその王国における森羅万象について精通していなければならない。「完全なるグリップ」だ。それがなければその王国はつまらぬ世界になるし、王は首を刎ねられることになる。一流の料理人が食材の目利きであり、仕入れのつわものであり、調理の達人であるのとおなじことが「表現王国の王」には求められるということだ。才能? 心配するな。ガジンには吾輩の眼鏡にかなう才能がある。


アノニマスたることについて ガジン 2013-05-20 09:06
少し話はズレる。村上春樹の「多崎つくる」はオレも読んだ。ひどいと思った。あんたの嫌いな出版文化について少し話す。我慢して聞いてくれ。あの小説、もし無名の書き手が編集者に渡したら、まず出版されない。「伏線をきちんと回収して下さい」と言われるだろう。編集者というのはセオリー通りの小説しか認めないからだ。オレがあの小説をひどいと思うのはセオリーからはずれているからではないが、それは脇におく。言いたいのは、「人に知られた名前」を持つことの意味だ。有名であることと表現の問題は、非常に難しい。糸井某はかつて「無名には表現がない」と言った。その言説の妥当性もさておくが、アノニマスでありつつ表現を成立させるという実験を、あんたはなぜ遂行しようとしたんだ? 出版文化への絶望か? それならオレも共有するが、あんたのやろうとしていることは、極めて困難な作業であるとオレは思っている。その困難を、あんたはどうして引き受ける?
ちなみに、あんたは忘れているかもしれないが、「アノニマス」という言葉をメールであんたに伝えたのはオレだぜ(笑)。ずいぶん昔の話だが、あんたがそれをいたく気に入ったのを覚えている。


あの日、アノニマスは吾輩のものとなったのだ。 自由放埒軒 2013-05-20 09:26
「アノニマスでありつつ表現を成立させるという実験」がいずれ途轍もないビッグマネーをもたらすという確信があるから吾輩はアノニマス・ガーデンの名無しの庭師になることを決めた。ビジネス・モデルもすでに出来あがっている。これについては微塵の揺らぎもない。そうでなければ片足どころか全身を突っ込んだりはしない。吾輩は極力愚か者、センスのない者、才能のない者とは関わりたくない。そういった輩との関わりは、徒労、時間の無駄に終わるからだ。アノニマスはPCをシャットダウンすればすべて終わる。つまらぬしがらみや義理人情に縛られ、患わされることもない。そこが一番の魅力だな。前にも言ったが、吾輩は生身の人間にはもはやひとかけらの興味もないのである。

ガジンが「アノニマス」という言葉を吾輩にもたらしただって?! それはちがう。ガジンというシャーマンを通して口寄せしたのだ。


儲かったら奢ってくれよな ガジン 2013-05-20 09:59
オレはイタコか。それはさておき、あんたのテクストクリティークはオレを十分納得させてくれた。礼を言う。
オレには暫し、休養が必要なようだ。入院はしない。女、抱けなくなるから。まあ、ファンキーに静養するさ。
ネット接続できる環境にある限り、このブログは読ませてもらう。回復したら、オレもまた新しい物語を書き出すかもしれない。人に勧められてるし、福島にハング・オンするという線もある。それで緩んだもの書いたら、あんたが白刃を突きつけにくるんだろうな。楽しみだ。
無限フーガになりそうなので、とりあえずここで失礼する。


「オンデマンド・ノベル」という草刈り仕事 自由放埒軒 2013-05-20 10:00
現在、吾輩にそこそこのファイナンスをもたらしているのは「オンデマンド・ノベル」だ。ひとつの物語、ストーリーにつき、読者は一人。クライアントでもある。『アノニマス・ガーデン』の熱心な読者でもあったある人物は一代で財をなした叩き上げだ。
ある日、彼はメッセージをよこした。「私を主人公にした物語を書いてほしい」とね。もちろん、吾輩は二つ返事で引き受けた。ギャランティは2000文字で20万。1文字100円。「。」ひとつが100円。「、」を30個打てばそこそこ気の利いた「オサレなランチ」が喰える。「豪華豪勢なステキステキディナー」を喰いたけりゃ、セリフのカギ括弧を200個も使やあいいという寸法だ。現在、そのような「クライアント」が7人いる。すべてはPWつきの秘密のブログ、Skype、Facebook、Twitter、BBS、そして、メールでやりとりしている。吾輩に関して彼らが持っている共通の認識、評価は「クール&スマート&タフ&ハードボイルド&インテリジェンス」だ。「おまえさんとは、かかっている元手と歩いてきた道の険しさと這い上がってきた谷の深さ危うさとくぐり抜けてきた修羅場の数、質がちがうのさ」と言ってやりたいが、黙っている。大事なお客さんだからな。呵々。
スカイプやメールやFacebookやTwitterにおけるメッセージ、コメントを通じて彼らから彼ら自身の人生を色々と「取材」するのも面白い。あるクライアントは江戸川乱歩、レイモンド・チャンドラーをはじめとする探偵小説のファンだと言うので、探偵小説風の物語で主人公に仕立てあげてストーリーを書いてやった。先方は大よろこびだ。吾輩にしてみればひょひょいのひょい仕事である。
各クライアントとも、2日に1本の割合で去年の夏から続けている。おそらく、彼らが死ぬか、吾輩がくたばるかするまでつづくだろう。ギャランティはきちんとPayPalを通じて振り込まれてくる。PayPalは手数料が割高だが、ファイナンス情報が日本の当局には絶対に漏れないというメリットがある。ebayに出品された吾輩の「商品」たる物語をクライアントは「競り落とす」という形を外装しているわけだ。よって、「代金」のとりっぱぐれはない。落札と同時に決済は滞りなく終了だ。実にクール&スマート。しかし! それにつけても、PayPalの手数料はマフィアなみだぜ。為替の差益の旨味はあるにはあるがね。
もちろん、税金など払わない。すべてはアノニマスで進行しているのだから当然だ。「オンデマンド・ノベル」は『アノニマス・ガーデン』における草刈り仕事のひとつというわけだ。キモは顧客、読者が少数でいいことだ。インチキマヤカシスカタンの仕掛け、マーケティングなんぞ不要にして無用だ。1500円だか2000円だかの本代に躊躇するビンボー人ではなく、「1文字に100円払う金持ちの変人」を数人みつければいいということだ。初版75万部? ハルキンボ、色彩はないが色々と御苦労さんってこったな。
そのうち、「アノニマス・クリエーター」の登場と台頭によって、既存のメディア、出版界はきれいさっぱり無化されるだろう。ニッパン、トーハンの下衆ポンコツどももな。出版マフィアをのさばらせつづけた書店も消滅だ。同罪、共謀共同正犯、自業自得ということだな。「本フェチ」の季節を長くすごした者の一人としていくぶんかのさびしさがなくもないが、こればっかりは仕方ない。
「文学賞」の類いも意味合いが変わってくるだろう。暇つぶしに芥川賞やらゴンクール賞やらでも獲ってやろうかという「本業:アノニマス作家」が本業でたっぷり腕を磨いて、ドスを研ぎに研いで、鼻歌まじり手慰みに本名で獲る時代がくる。ポンコツボンクラヘッポコスカタン編集者どもやカビが生えて脳味噌のしわの伸びきった審査員のセンセイがたの吠え面が今から楽しみだ。
オファーはほかにもいくつか来ているが、「商品」の質を落としたくないので、しばらくは今のペースでいこうと思っている。そのうち、吾輩の眼鏡にかなう「表現者」で、なおかつアノニマスに表現したいという奴をみつけて、「分業」体制を敷くことも考えている。世界中でな。書き手と読み手は国語分だけあるわけだから、マーケットは無限だ。PCとネットワークさえあればいますぐにもできる。設備投資、インベスティゲーションも不要。やめたくなったらPCをシャットダウンし、ネットワーク回線を切断すれば、なにごともなかったように「まったくの別人」になれる。出社も会議も営業も納税もなし。だれとも会わない。だれにも文句は言われない。命令も指示も説教もされない。なにしろ、こっちは天下御免の匿名、アノニマスだ。空気に文句を言う奴はいないだろう? 空気に説教をする奴がいたら、そいつはまちがいなく狂人だ。完全匿名人は完全自由人でもあるわけだ。
会議室もいらなければ役員室もいらない。倉庫も守衛室もいらない。食堂も喫煙ルームも。福利厚生も社会保険も失業保険も。「無駄」はクール&スマートの敵だ。すべてはクール&スマートに進行する。稼ぎたい奴が応分に稼ぐ。稼げる奴が稼ぐ。稼げない奴は「物静かに退場しろ」というこったな。
「商品」がつまらなければ「クライアント=読者」が離れていくだけの話だ。このあたりはまさに冷厳にして冷徹だな。まさに、ケインズ流経済学の踊り場だ。しかし、きわめてわかりやすい。能力のあるやつは稼ぎ、ないやつは淘汰されていく。それでいい。それこそが吾輩が長いあいだ望んでいた「仕組み」である。
しがらみなし。義理人情なし。愚か者、ナンセンス、才能のない奴とも関わる必要なし。日本にいる必要すらなし。アフリカのサバンナのど真ん中だろうが、マリアナ海溝の最深部の岩陰だろうが、ヴィーナスと乳繰り合うシャコガイの貝殻の裏だろうが、冥王星の戸籍係の机の上だろうが、ネットワークがあり、PCがあればできる。必要なのは「文体」と「創造力」と「眼力」だけだ。そのうち、吾輩の大嫌いな「国家」とやらも雲散霧消しちまうだろう。吾輩のような不埒な輩が世界中で同時多発的に発生すれば、「税収」はかぎりなくゼロに近くなるわけだから、国家経営自体が成り立たなくなるというこったな。ヘーゲルもカントもフーコーもデリダすらも予想していなかった事態だ。大笑いもいいところだな。まさしく、「新種の誕生」だ。実はとっくに「新種」は誕生し、着実に増殖しているんだけどもな。閾値の到来はすぐそこだ。確信さえあれば、核心と革新は一気にやってくる。「確信したことは実現する」ということだ。思うだけでは足りない。思い、確信することが大事だ。ナポレオン・ヒルは詰めが甘いぜ。
クライアントは「キーワード検索」で向うからこちらの網の中にやってくるから、無駄な広告宣伝も不用だ。吾輩のテクストに「固有名詞の羅列」が登場するのは「キーワード検索」にひっかかるための方便の意味もあるということだ。ゼニカネに不自由しなくなって「自分だけのストーリー」を欲しがる人種がいるってこったな。世界には吾輩やガジンだけでなく、エキセントリックな人物は少なからずいるものだ。
知識、教養、センスを身につけるための時間的な「元手」は必要だが、そんなものは好き放題、面白おかしく生きてきた吾輩の人生からすればロハもんと言っていい。やるやらないは自由だが、いつか、折りをみてガジンにも声をかける。「そのとき」に備えて、せいぜいドスを磨き上げておくがいい。スパンキング・ラケットがわりのドスをな。

吾輩が首まで浸かっているのは「アノニマス」という名の革命だ。すなわち、Anonymous Revolution. 革命家になるか乞食になるかホモになるか。はたまた、飼い犬として一生を終えるか。答えはすでにして明らかだろう。All Over The World, Roll Over The World!だ。
すでにして賽は投げられた。果たしてどんな目が出るか? どんな出目にせよ、裏目を足せばすべて「LUCKY 7, ラッキーセブン」だ。最悪でも0はない。出た芽は花を咲かせ、実を結ばせないとな。メンチ切りならだれにも負けない。メンチカツは大好物だ。メンコいおめこもな。一番好きな上がり役はメンピンジュンチャンサンショクイーペーコーイッパツツモドラドラときたもんだ。(老松)


色んなことを思いつくな、あんたは ガジン 2013-05-20 17:00
なるほど、「オンデマンド・ノベル」か。面白いコンセプトだな。しかし、ここでアイデア公開しちゃっていいの?
少し考えたが、やはり「いたち野郎」執筆には無理があったようだ。オレはあんたの修羅の部分を知らんし、そういうのを当て推量で書くわけにもいかない。謎は謎のままにおくとして、オレはまた別の切断面を考えるべきだろう。
とにかく今は妄想がひどくていかん。その中にはあんたが絡む妄想もあるのが笑える。入ってくる情報のすべてが妄想のネタになってしまうので、「ネットも含めたリソースを全部、いったん遠ざけるべし」という医者の助言は、まあ、的確なのだろう。いっそ何もかも放り出して福島に行くというのも手かもしれない。今のマスコミの被災地報道はくだらなすぎる。オレも「絆」だの「がんばれフクシマ」だのには反吐をつきそうになる。
明晰さとは、一つの傷なのだと思う。この狂った世界では。オレがその傷を負っているのかどうかは、わからないが。
しばし休む。


新世界の新種として生き残りたい者どもへ
学べ。ひたすら、三昧に血煙をあげて学べ。それが新世界で成功するための投資だ。

 
[PR]
by enzo_morinari | 2013-05-21 14:55 | うつむきかげんのショータイム | Trackback

うつむきかげんのショータイム#007 安部公房を盗め!

 
c0109850_7152748.jpg

 

日本人の偏見は微温的である。あえて特徴づければ、偏見に対する偏見こそがもっとも日本的な偏見だと言ってよい。 KO-BO-S-KHARMA

外部と内部、環境と生物の日常的バランスが敗れるような条件に出遇った場合、そしてそれが激しい場合、生物はしばしば一時的な原始化、先祖返りの反応を示すことがある。 KO-BO-S-KHARMA

人間はすでに心理的に猫に敗北している。 KO-BO-S-KHARMA

ユークリッド空間では永遠に交わらない平行線も非ユークリッド空間では自由にくっついたり離れたりする。ある思考体系からみれば二つのものが、別の思考体系からみれば一つのものになりうる。 KO-BO-S-KHARMA


安部公房。よくぞ出たというのが吾輩の印象だ。しかも、日本のようなつまらぬ国から。100年どころか200年先、300年先、さらには事象の地平線の先まででも通用する。ぞっとするような事態、事象を飄々と淡々と描ききる眼差し、筆力、そして文体。安部公房は盗みどころ満載だ。吾輩は出会って以来、ずっと盗みつづけている。汲めども尽きぬ。それが安部公房だ。

c0109850_7154872.jpg

『壁』『飢餓同盟』『けものたちは故郷をめざす』『砂の女』『他人の顔』『無関係な死』『終りし道の標べに』『燃えつきた地図』『箱男』『密会』『砂漠の思想』『内なる辺境』『都市への回路』『死に急ぐ鯨たち』
これらのテクストは吾輩の「生きつづけているかぎりの愛読書」である。すべてについて、吾輩は100回以上読んでいる。特に、『壁』『砂の女』『他人の顔』『無関係な死』『終りし道の標べに』『燃えつきた地図』『箱男』『密会』『砂漠の思想』『内なる辺境』『都市への回路』はいまも繰り返し読みつづけている。

はっきり言ってしまえば、安部公房で世界も時間も人間も社会も心理もすべて解読解釈できる。物語の骨格のあるべき姿、文体の強度も盗める。村上春樹もずいぶんと安部公房を盗んでいる。集中的に、一気呵成に安部公房を読むことを強くすすめる。

c0109850_7145347.jpg

 
[PR]
by enzo_morinari | 2013-05-20 07:16 | うつむきかげんのショータイム | Trackback

うつむきかげんのショータイム#006

 
c0109850_330502.jpg


 
『スカンク・ボブのエクソダス』をめぐるノート
 
すでに本やノートに書いてあることをなぜわざわざ記憶しなければならないのかね? A-E

すでに終わった世界について記述する意味があるとすれば「未発見の笑い」の開拓である。 E-M-M


「ニナガワ」の裏社会の者ども、修羅の群れとの丁々発止を描くことは必須だろう。加えて、愚鈍愚劣な「悪」も登場させるべきである。ガジンやビーマルには見せないように用心し、実際、見せていなかったが、吾輩が渡り合ってきたのはそういった輩どもである。さらには、オーエとその取り巻きどもに象徴される「卑欲」「卑しい魂」に蝕まれた輩どもも登場させるべきだ。

「エンドウ」のおばちゃんはいいキャラクターだ。もっと登場させることをすすめる。「戦前の独逸留学経験を持つ爺さん」も。イトービーマルに象徴される「臆病姑息小児病患者」も。

「生への意志」は「死の希求」でもあるだろう。端的に言って、この世界は「生きつづけるに値しない世界」である。馬鹿馬鹿しいにもほどがあるほどに馬鹿馬鹿しい世界だ。

われわれが少年時代から青年時代を生きた時代はドラマツルギーという観点から言うならば「いい時代」だった。冷戦、南北問題、核の冬、ベトナム戦争、公害。終末や絶望がリアリティをもってわれわれの現前にあった。いまや、終末と絶望のプレゼンスは影をひそめ、弛緩した時間だけが広がっている。「お手軽に生き延びることができる世界」は「生」の意味を間延びさせ、「生」の意欲を減退させ、「生」をつまらなくする。三島由紀夫が自裁したのはそのことを精緻明晰に読み取ったからであるというのが吾輩の考えである。

世のインテリゲンチャ、知識人、文化人どものつらをよく見てみろ。どいつもこいつもつまらぬつらをしている。東浩紀という若造小僧。あんな者が吾輩の身近にいたらケチョンケチョンのコテンパンにされ、引きこもり人生だ。その他の有象無象も同様である。そのような輩が大手を振り、肩で風を切ってのさばっている。

クールになること
スマートであること

文体をもっと引き締めろ。「文体の強度」「文体の硬度」が足りない。フリーライターもしくはフリーライター経験を持つ者がしばしば陥る「品性品格のない文体」があちこちに顔を出している。

文体の硬度
文体の強度
文体の難度
文体の軟度

つねに、いついかなるときにも「編集者」であれ。
説明的でないこと。
説明的であってはならない。
説明しなければ伝わらないことは説明する価値のないことである。
報告的であってはならない。
書き手は王である。
まわりくどくあってはならない。
対象の周囲をまわればまわるほど核心から離れていくものだ。
核心に一気に迫ること。
権力への意志
何度でも読み返し、削り、研ぎ、研ぎ澄ますこと。
「てにをは」と「句読点」
「、」と「。」
独自の遠近法=パースペクティブ
文体の遠近法=パースペクティブ
プロフェッショナルとして広告制作に携わったことも大きいだろう。

文体と編集
緊張感と文体
緊張感。張りつめた空気。殺気。妖気。そういったものを常にどこかに忍ばせておこうとする態度は必要だろう。書かずに、語らずにそれができたら言うことなしだがね。

「技術」としての文体
「テクノロジー」としての文体
「思う」「考える」「感じる」は極力使わない。

苗字を漢字で表記しない。これはそこそこ厄介だ。村上春樹を評価するきっかけは野郎が「漢字の苗字」をほとんど使わない点だった。吾輩は村上の「名前」に関して取る態度を「人間も世界も記号としてとらえる」と解釈した。
吾輩は「漢字の苗字」が出てくる小説、物語はすべて斜め読みだ。例外は芥川以前だけだな。

「場」としての
修羅場と文体
文体修行について
決して「文章修行」ではない。「文体修行」である。
鎌田東二で文体修行
戸田ツトムで文体修行
ピカソで文体修行

「読み手」「読者」を想定しない。ハードルを下げれば自身も下がり、ハードルを上げようとすれば背伸びになる。「読み手」「読者」からテーマ、コンテンツを引っ張りだしてくるのはいいとしてもね。

世界にあふれ返っている表現、テクストを見てみるがいい。ポンコツボンクラヘッポコスカタンだらけだ。言語表現をめしのタネにしているやつらも含めてだ。故障した日本語、おもねった文体、志なき表現。お話にならない。小学生レベルのポンコツボンクラヘッポコスカタンが「物書きづら」して大手を振り、肩で風を切っているという救いようのない事態。インターネット上にあるテクスト、表現についてもひどいもんだ。ブログに見るべきもの読むに値するものなど数えるほどだ。どいつもこいつも「ライフスタイル自慢」「センス自慢」「仲良しごっこ」にうつつを抜かして日も夜もない。しかも、書かれているテクストは故障した日本語だらけときている。

単独者と文体
「快楽との訣別」が文体の強度を高める。少しく詳しく言うならば、快楽に翻弄されない精神をわがものとするというこったな。さすれば、女ごときに焦がれることもなくなる。惑わされなくなる。小林秀雄は「女の腰つき」に翻弄されてずいぶんと難儀したようだが、吾輩はその点については小林より早く「女の腰つき」なんぞ屁とも思わなくなった。いまでもおねいちゃんどもとはヤリまくり、蕩けさせまくってはいるがね。それもまた吾輩の「文体修行」の一貫である。

言葉の虜囚となってはならない。言語至上主義者になってもいけない。言葉を飼いならし、番犬、自家薬籠中のドスとせよ。吾輩は「泡の時代」に経験した丁々発止の数々を契機として腹を括った。なにについて腹を括ったかと言えば、

そして、吾輩は結論をえた。「言葉も思想も思っているほど役に立たない。ならば、研いで研ぎまくって切っ先鋭くし、宇宙にただ一本の自分のドスにしてやればいい。古今東西に並ぶものなき名刀。エクスカリバーも菊一文字も関孫六も凌ぐ吾輩ナイフにしてやればいい」と。

恥を知る文体
身辺雑記は表現しない。書かない。ユトリロの絵などにはひとかけらの価値もないというのが吾輩の考えだ。「家具の音楽」とやらのエリック・サティの音楽にもな。

たとえば、いまはGWの時期だが、書き出しにいきなり「GWですねー」とくるやつ。「GW」の二文字を目にしたとたんに吾輩はそのブログを閉じる。そして、二度と開かない。GWにGWの身辺雑記を記すことになんの意味があるんだ? そういったポンコツボンクラヘッポコスカタンは雨が降れば「雨ですねー」、晴れれば「いい天気ですねー」、地震があれば「揺れましたねー」、津波があれば「津波ですねー」、原発がメルトダウンすれば「メルトダウンですねー」、そして、いよいよ自分が死ぬときには「死にますねー」といった具合だ。このことはすべてについて言える。まったく評価しない太宰の言葉に「1行読めばわかる」というのがあるんだが、これはいいことを言っている。吾輩の場合は1行どころか2文字でわかるがね。言われたのは吉本隆明なわけだが。この言葉のあとに、太宰は吉本の無精髭について言及し、「太宰さんにも重かった時期がありましたか?」とたずねた吉本に、「きみきみ。男性の本質はなんだかわかるか? マザーシップだよ。やさしさだよ。きみ、その薄汚い無精髭を剃れよ」とほざく。こういうところが吾輩が太宰を気色悪いと思うところなんだな。「芥川賞を獲らせてくれ」と川端に泣きつく女々しさ、道連れがなけりゃ死ねないようなポンコツボンクラヘッポコスカタンというオチだ。太宰をいいというやつらは、こういう太宰の女々しさがいいんだろうな。なにが「生まれてきてごめんなさい」だ。吾輩ならさしずめ、「生まれてきてやったぞ。馬鹿野郎!」だ。

スープに毛が入ってああじゃねえこうじゃねえという文脈はスパゲティ・バジリコが滑った転んだの村上春樹にも脈々と受け継がれている。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』などにはまったく価値がない。吾輩の評価は「甘っちょろい」だ。村上春樹は本当の意味の裏切りを経験していないだろう。背かれ、指弾され、追放された経験もないだろう。だから、村上春樹は「甘っちょろい」のだというのが『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』以後、村上春樹とほぼ同時代を生き、現在に至る村上春樹についての吾輩の結論、総括である。

村上春樹はうまくはあるが強度がない。ハルキンボの坊やは、やはり、おなじように「甘っちょろい」ポンコツボンクラヘッポコスカタンどもの「不全感」の補填に精を出せばいい。

吾輩は村上春樹を見切った。機会があれば村上春樹に吾輩の白刃の切っ先を突きつけてやる。そのときの村上春樹のカワウソとアマガエルが合わさったような能天気なツラがどのように歪むのか? 今から楽しみだ。

「ポスト3.11」に関すること/恥知らずどもにむごたらしい死を!
震災、F1-1, 2, 3メルトダウン以後の世界を、吾輩は「恥知らずどもが露わになる世界」とみた。3.11の直後のことだ。「友愛」だの「絆」だのという実現の道筋なき上滑りした言説を目にするにつけ、「どうせおまえらはすぐ、恥も知らぬげに『オサレなランチ』やら『豪華絢爛ステキステキのディナー』やら暮らし自慢やらライフスタイル自慢やら仲良しごっこやらで浮かれ騒ぐんだろう」と思っていた。案の定だ。みてみろ。ネット上に溢れ返る故障した日本語まみれの恥知らずどもの言説を。反吐が出る。

「悲劇」「深刻」ではなく、「喜劇」「軽妙」として描くことはできないのか? 3.14のF1, F2, F3におけるメルトダウン以降の日本人の緊張感のなさ、弛緩ぶりをみてみろ。どいつもこいつも能天気、お気楽極楽に「わが世の春」とばかりに「オサレなおランチ」やら「豪華豪勢ステキステキなディナー」やらライフスタイル自慢やら暮らし自慢やら仲良しごっこやらで日も夜も明けぬ極楽とんぼばかりという事態を。朝めしやら晩めしやら無印良品で手に入れた「歯ブラシ立て」を御丁寧にも画像付きでさらして悦に入っているという事態。グロテスクなエゴイズムをさらすことになんらの躊躇もない外道どもの群れ。見方を変えれば、それほどに人間はおめでたくできているということだろう。そういった輩どもの共感をえる必要などこれっぽっちもないが、「悲劇」「深刻」「苦悩」に彩られた主題を「喜劇」「軽妙」「洒脱」で逆視することのほうが「強度」を持ちうるというのが吾輩の考えだ。吉本隆明の文体で古典落語、三河万歳をやること。

病みながら生きる治療者たちを登場させること。
『カラマーゾフの兄弟』のニーナとアリョーシャ、そして『悪霊』のチーホン僧正
「傴僂の天使」と称されるニーナは、貧しく諍いの絶えないカラマーゾフ一家の「守護天使」のような存在だった。深刻な業病に蝕まれたニーナは家族をケアする存在であり、重い障害を抱えながらなお魂の美しさ、人間愛を持つ存在。ニーナはアリョーシャや『悪霊』のチーホン僧正とともに「病みながら生きる治療者の系譜」に属する人物だ。そこには人は病んでなお「健やかさ」を持ちうるというヒョードル爺さんの人間観と病みながら生きる者への畏敬の念をうかがうことができる。このヒョードル爺さんの主題はいまも有効だろう。

c0109850_3311511.jpg

 
[PR]
by enzo_morinari | 2013-05-20 03:31 | うつむきかげんのショータイム | Trackback

うつむきかげんのショータイム#005

 
c0109850_20244389.jpg


ガジンという男がいる。別府雅人。言説者。作家。吾輩より2歳若輩。大顔だが男前だ。身長は180cmほど。知の反射神経は及第点。大脳辺縁系ならびに大脳新皮質の性能は42点満点で36点。縄師。蝋燭師。スパンカー。偶然にも吾輩が「牧歌的時代」を過ごした横浜出身。

ガジンは吾輩に『意志の中心がメタル。』と『鎮魂のイストワール』というふたつのすぐれたテクスト、世界、世界観をもたらした。20年ほども前のことだ。「こいつはモノになる」と思った。

問題は「不良経験」がないことである。「経験」と呼びうるようなものをほとんど経験していないにもかかわらず「経験」を信じていないところが難点だ。

1999年、吾輩とガジンの「友情」「関係性」は吾輩の放埒放蕩暴虐の日々を主たる要因として終焉を迎えた。吾輩とガジンのパイプは完全に遮断された。

その後、吾輩は「放埒放蕩暴虐」にさらに磨きをかけ、凄味をつけ加え、ガジンは中国に関する「いい仕事」をした。吾輩はガジンの仕事ぶりをやや斜に構えながらも静かに計測した。そのうち、ガジンは「太宰治文学賞」の最終選考に残った。どのような経緯、理由があれ、どのようなかたちであれ、太宰治などというポンコツボンクラヘッポコスカタンにコミットメントした時点で吾輩の評価はうなぎ下がりである。ゼロどころではない。マイナスである。吾輩はガジンに関する「興味」を急速に失っていった。

そして、つい先頃、ガジンはインターネット上で吾輩の「呪縛」の網に迷い込んできた。「訣別」から14年が経っていた。ガジンは「精神分裂病」という名の世界の住人になっていた。精神障害者保健福祉手帳障害等級判定基準による精神障害1級保持者。埴谷雄高式癲狂院閉鎖病棟経験2回。2回のうち、初回の期間は2年に及んだ。吾輩はその事態を「新しい世界観の獲得」と解釈した。カッコーの巣の上でガジンがどのように世界を俯瞰し、いかなる歌を歌ったのか。ガジンのルイスウェイン・キャットはいかなる変容と変貌を遂げたのか。そして、その「魔の山」でガジンが経験した酷寒のミル・プラトーはガジンの精神構造にどのような変化をもたらしたのか。吾輩のガジンに対する興味は訣別前よりも強度を増して回復した。

「精神分裂病」「統合失調症」は病いでも障害でもないというのが吾輩の考えだ。それらは、権力構造によって押しつけられた「根拠薄弱の病名」にすぎない。そもそも、「病名」「病いの名前」などにはなんらの意味も価値もない。そのことの意味がわからぬ者はJ.M. フコの『狂気の歴史』と『監獄の誕生』を百遍でも二百遍でも読むがいい。

吾輩はこれから数日、『スカンク・ボブのエクソダス』と名づけられたガジンの「死に至る病い」の記録、「眠られぬ夜のため」に記された魂の記録、第二のルイス・ウェインとしてのアウトサイダー・リタラリー、「精神分裂病」という名の「経験」を獲得した「もうひとつの『路上』」を解読するための作業に集中する。この作業は吾輩の「放埒放蕩暴虐の日々」と現在との切断面を解読する作業ともなる。「経験」などなにひとつ信じるに値しないが、なにがしかの「強度」を獲得するための契機とはなりうる。そうでなければ生きつづける意味などない。

*下記にガジンとの直近のやりとりを附記する。いくぶんかの参考にはなるはずだ。

「あの頃」と「今」ガジン 2013-05-18 09:58
オレは今、ある種の混乱の裡にある。色んな妄想に捉えられている。そこにヘンチクな幻覚が絡む。統合失調症という病名は大嫌いなので使わない。分裂病の症状である。医者は休養入院を勧める。外界からの情報を一時遮断せよ、と。一理あるがオレは素直に言うことを聞かない。オレは精神医学を信じていない。

くたばっても構わない。オレはオレの自動書記によって「本当の答え」を出したい。それしか自分を癒す手段はなかろうと思う。病院のベッドとか向精神薬とかは単なる対処療法(「対症療法」の誤記。筆者)であり、一時の逃げ場に過ぎない。

オレにとって「あの頃」と「今」は地続きなんだ。自分を更新するために、オレは「あの頃」を切断しなければならない。その手段は書くことしかない。「あの頃」の持つ意味をフィクショナルに再構成することによって「あの頃」から自由になること。

生きるとは、不断に自分を更新していくことだ。あんたの言うとおり、変化しない人間、変化を恐れる人間は、本当の意味で生きているとは言えない。「今」のあんたと「あの頃」のあんたの切断面を、オレはこのブログで見せてもらった。オレもまた、見せるべきだろう。

「いたち野郎」の第一稿の途中経過をブログにアップしておいた。これで3/5ぐらいだ。
http://ekr48ofc.blog.fc2.com/

3日で削除する。よかったら感想を聞かせてほしい。どんな感想でも構わない。入院するかどうかも、物語の先を続けるかどうかも、それを見てから決めようと思う。


吾輩は「世界秩序」を希求するが信じない。自由放埒軒 2013-05-18 13:47
委細は承知した。吾輩の辛辣悪辣な「慧眼」「心眼」「批評精神」にガジンのテクスト、「地続きの時間」「"あの頃"と"今"の切断面」がどこまで耐えうるか、じっくりイングリモングリモーグリに計測する。以下に「あらかじめ失われたアノニマス・ガーデンにおけるあらかじめ死んだ庭師によるあらかじめ存在しない時間」たる吾輩の「切断面」の切口の一端を記す。

吾輩は「世界秩序」を信じない。強く希求するが一切信じない。吾輩は世界を信じない。時間を信じない。人間を信じない。「絆」を信じない。なぜなら、それらは救いようもなく愚かでのろまで腐っているからだ。

吾輩は世界はさらに微分され、粉砕され、粉砕されつくすべきであると考えている。吾輩はあらゆる統合、積分、調和を憎む。微分されつくしておらず、粉砕されつくしていないにもかかわらず、「甘っちょろい親和欲求」に基づいて統合、積分、調和を目指したところで、事態はさらによくない地点に行き着くことは歴史が証明している。まだ足りない。木っ端微塵になっていない。堕落しきっていない。「堕ちるところまで堕ちよ」と吾輩は叫ぶ。堕ちるところまで堕ちた先に揺らぐことなき「統合」「積分」「調和」はやっと貌をみせる。これが吾輩の基本軸Xだ。

吾輩の基本軸Yは「諦め」「諦念」だ。世界を成り立たせているもののほとんどは愚かで腐臭を放っていて姑息で臆病で冷酷冷淡である。例外はひと握りどころかゴビ砂漠でみつけた針の先に乗る砂粒の上の量子ていどである。数人の言説者、表現者たちの数行、数枚、数音によって吾輩は生き延び、それらは「新たなる地平を目指すための拠点」となった。ガジンの『意志の中心がメタル。』と『鎮魂のイストワール』もそのうちのひとつだ。身近、直近では森博敬というヴィジュアル表現者が吾輩の魂に杭を打ち込んでいる。

吾輩の基本軸Zは「快楽への意思」だ。「快楽」は吾輩を突き動かす。「快楽への希求」に翻弄されていた時期はとうに過ぎ、吾輩はいま「快楽」を支配下に置くことにほぼ成功した。女の「腰つき」にもびくともしない。

吾輩の基本軸Ωについては『スカンク・ボブのエクソダス』についてのトランス・トラジッチ・クリティークの中で述べられる。吾輩の基本軸αはその記述の中で発見される。


厚情、痛み入るガジン 2013-05-18 13:59
あんたの辛辣な批評精神にさらされるのは望むところさ。

「おまえには吾輩をグリップする才能がない、やめておけ」でも、 「こんなものしか書けないのか、くたばれ」でも、なんでもいい。さすればオレも、何の未練もなくこの仕事を放擲できようというもの。待っている。
 
[PR]
by enzo_morinari | 2013-05-18 17:25 | うつむきかげんのショータイム | Trackback

うつむきかげんのショータイム#004


c0109850_3273020.jpg



曖昧な想像なんて めくるめく光の偶像
大抵は君にも届かず終わるだろう
(L-S-D)

世界は言葉でできている。言語化しないかぎり石ころひとつグリップできない。「木の上の軍隊」への兵站を確保することも不可能だ。そして、文体とは世界の息づかいである。「世界のリズム」「世界のビート」と言ってもいい。リズムが悪く、ビートの効いていない音楽がスカであるように、リズム、ビートに齟齬のある表現、すなわち文体がイカれている表現はどこにも行けず、届かず、なにものも喰い破れない。フィーユの一枚さえもだ。文体は世界を喰い破るための武器、ドスである。E-M-M


「文体修行」としての広告文案。そして、稀代の言説者・鎌田東二。
吾輩は片岡敏郎と秋山晶と糸井重里と中畑貴志を中心に広告文案家のテクストを鬼となって読み、分析し、解読した。字数、句読点の打ちどころ、オチ。彼らの広告文案は「文体修行道場」のひとつだった。誠文堂新光社から出ていた「全作品」シリーズは全巻揃えるほどの入れ込みようだった。

また、いまやポンコツボンクラヘッポコスカタンに成り下がってしまったが、糸井の「不思議大好き」「おいしい生活」のA4版数百ページにもおよぶ企画書を手に入れて、すり切れるほど読んだ。その企画書は一時期の吾輩の愛読書でさえあった。

そうしているうちに彼らの「息づかい」までもがくっきりとわかるようになった。「ああ、ここで一服したな」とか「ここは書き直したな」ということまでも。1980年代末の銀座線、半蔵門線、千代田線、東横線の広告はすべて記憶した。それは「文体修行」のみならず、グラフィック・デザイン、エディトリアル・デザイン、ブック・デザイン、フォント・デザインを中心とするデザイン全般、ヴィジュアル、アート全般の「みる目」を養うのにも役立った。ことグラフィック・デザイン、エディトリアル・デザイン、ブック・デザインに関して言うならば、吾輩はいまでも一流の目利きであるとの自負がある。

戸田ツトムがブック・デザインした書物は高価だったがすべて手に入れた。戸田ツトムのエディトリアル・デザインとブック・デザインに「文体」を読み取れるようになった時期とおなじくして、吾輩の「泡の時代」の端緒となる「大きな仕事」の話が舞い込んだ。そして、吾輩は修羅となった。「発狂」した。広場で孤独を感じるどころか気分は昂揚し、広場の中心で打擲される馬をみて憐れみを感じて叫び声をあげるかわりに、「馬刺にして喰ったらうめえかな?」と考えるような狂人ぶりだった。大好きなニーチェに顔向けもできやしねえ時期だな。

戸田ツトムをめぐる過程で鎌田東二を知った。NTT出版から出ていた書物のほとんどは戸田ツトムがエディトリアル・デザインをしていて、鎌田東二の書物はそのうちの一冊だった。

言説者、言語表現者として鎌田東二はすごいぜ。ここ200年のスケールでも筆頭の部類に入ると言っていい。鎌田東二は「言霊」の極意に迫り、そして体得した数少ない言説者、言語表現者だ。国学院出身で東大閥、京大閥に属さないために学者としての正当な評価はえられていないが、やってきた仕事、現在やっている仕事の質は途轍もない。時代の遥か先を血煙を上げながら突っ走っている。そして、鎌田東二のフンドシROCKは珠玉だ。神道、日本思想がメインのフィールドだがおもいっきりロックしている。ロックしまくっている。大酒飲み時代、修羅の時代を経験しているというのも評価ポイントである。


いたち野郎の迷走行 ガジン 2013-05-05 22:02
コメ入れるぜ。

あんたが「文体」を鍛え上げてきた過程はなんとなくわかった。ネットが戦場だったわけだな。だが、言葉とセンスを武器にネットで戦えば誰でも「文体」を手に入れられるわけではなかろう。インテリジェンスという素地が要る。教養という下地が要る。反射神経の良さも必須の条件だろう。

オレが今考えているのは、90年代時点でのあんたをモデルにしたニナガワという男が重要人物として登場する自分の作品のことだ。オレはニナガワをインテリジェント・モンスターとして描いた(描いている、まだ道半ばだ)。だが、あんたの思想と言語感覚の跳躍を目にし、跳躍の過程に関する語りを聞いた今、オレはニナガワのインテリジェンスを低く見積もりすぎているのではないかという不安を覚えている。

作品は、オレが過去を振り捨てるための通過儀礼としてどうしても書かれなければならないものだった。そして、そこにはどうしてもニナガワに登場してもらわなければならなかった。オレはこれを90年代デカダンス期(とあえて言おう)にあったオレたち、相応に愚かであったオレたちのメモワールとして改変を加えずに進めるべきなのか。それとも、現在のあんたをメルクマールとして新たなニナガワを造形すべきなのか。非常に迷っている。

だが、現在のあんたはあんた自身が書けばいいことで、何もオレが伝記作者の役割を務めることはないだろう。それに、「あのとき」のオレに強い影響を与えたのは、あくまでも「あのとき」のあんたである。難しい。長くなりそうなので、一旦、送る。


インターリュード/インテリジェント・モンスター 自由放埒軒 2013-05-05 22:35
インテリジェント・モンスター。いい言葉だ。かつて、おなじことを高畑勲も言った。

「きみはインテリジェント・モンスターだな。たいがいの野獣と怪物にはお目にかかってきたが、きみはそれらとはちょっとちがう。わたしが見てきた野獣や怪物たちはうまく調教すれば社会に放つことができたが、きみは調教師を食い殺すだろう。きみにとってそれは大きな不幸であり、社会にとっては大きな損失だ」

高畑勲があと10歳若かったら吾輩の人生もまた別の様相、ちがった色づきを呈していたかもしれないと思うこともあるが、死んだ子の齢を数えてもしかたあるまいな。


承前 ガジン 2013-05-05 22:37
いろいろ書こうと思ったが疲れたのでもうやめる。とにかく、あんたはモデルなんだから、あんたが「書くな」というならオレは作品を破棄する。なんか、考えるの疲れた。


友よ、静かに眠れ。 自由放埒軒 2013-05-05 22:41
友よ、静かに眠れ。ただし、悪夢満載で。


悪夢は獏にでも食ってもらうさ。 ガジン 2013-05-05 22:50
気を取り直して続けてみよう。

たとえば恐ろしく馬力の高いスポーツカーが制限速度40キロの道しか走れないとしたらそれは不幸なことだろう。オレのニナガワは、そういう男だ。あまりに過剰なエネルギーを有するがゆえに、「生きていることそのもの」が苦痛になってしまっている男だ。90年代のあんたを、オレはそう見ていた。たぶん、こいつ、死にたいんだろうなと思っていた。そんなあんたに、オレは自分のポジを見ていた。あんたがポジで、オレがネガだ。なぜなら、あの頃、オレもまた死にたかったからだ。


あの頃、「意識」を失いたかった。 自由放埒軒 2013-05-05 23:08
あの頃、というよりも生まれてからずっと、世界はスロモーション映像のように緩慢に動いて見えていた。人間も。太陽も月も。天体の運行も。雲の流れも。時のうつろいも。いまもだ。吾輩にとってはなにもかもがウスノロだ。遅い。「だらだらトロトロしてんじゃねえ!」と苛立っている。この感覚を理解できるのは死んだアイルトン・セナくらいのものだろうな。常人の1秒は吾輩にとっては100秒に感じる。

世界がウスノロなことに苛立つのはとても疲れる。だから、吾輩は「意識」を失いたかった。ひたすら眠りたかった。しかし、眠りは訪れない。そうなると、「意識」を失うために吾輩ができることは酒かドラッグだった。しかし、酒を浴びるほど飲んでも、ドーズしても、吾輩の意識は冴え冴えとしていた。

「死」も意識を失うための選択肢のひとつだった。なぜ選択しなかったんだろうな。わからん。


承前 ガジン 2013-05-05 23:13
ニナガワは、天使であるその妻ミレイをアダチに提供する。ソシアリズムという名の、歓待の掟である。そして、アダチに彼の女であるアスカを差出すように要求する。決して、強要的にではなく。すべてはニナガワの計算である。彼は、アダチを追い詰め、自らを殺害させるように仕向ける。だが、アダチはニナガワを殺害したことを錯乱の中で忘却し、白神山地の山中でミル・プラトーを経験した後、精神病院に収容される。そして、パソコンという嘆きの壁にひたすら物語を書き続ける。物語はインテリジェント・モンスターを蘇生させる。仮面の狂女=ミレイの導きで、夜の動物園でアダチはニナガワと再会する。ニナガワはアダチの真の欲望を知っている。彼は一発の銃弾でアダチに死をプレゼントする。ポジとネガがメビウス状につながる。そして、いたち野郎はエクソダスを果たす。彼は、世界という物語を語りだすだろう。
だいたい、そんな感じ。1990年代の物語、さ。


インターネットという名の「嘆きの壁」 自由放埒軒 2013-05-05 23:24
吾輩にとってインターネットは「嘆きの壁」でもある。ただし、吾輩は嘆きを怒りで外装して壁に「言葉」を記す。いや、記すのではない。叩きつける。吾輩にとって「嘆きの壁」はサンドバッグだ。何発でも何万発でも何百万発でもパンチを叩き込む。都合のいいことに、インターネットという「嘆きの壁」はタフだ。24時間365日、休みなくスパーリング・パートナーを努めてくれる。壊れない。音をあげない。泣かない。「まいった」を言わない。

吾輩は強いものが好きだ。壊れないもの。音をあげないもの。泣かないもの。「まいった」を言わないもの。吾輩にとってインターネットはうってつけのサンドバッグ、スパーリング・パートナーだ。


これもまた嘆きの壁か ガジン 2013-05-05 23:38
率直な感想を言えば、あんたは変わっていない。しかし、同時に、大きく変わったと思う。

そうか、今でも世界はスローモーションなのか。たとえばそれこそ意識をなくすまで泥酔し、ギランバレーなどという厄介な病を抱え込んでしまっても、それでもなお酒を飲み続け、また、浅草のギャングたちをつぎつぎに屈服させていき、オレはその蕩尽っぷりにあきれ果て、ついにはついていけなくなったわけだが、あんたの抱えている不幸だけはわかっていたつもりだ。あんたと決別した後、オレは激しい自責の念に襲われた。あの後、あんたは一時的にブログを閉鎖し、行方不明になった。不遜を承知でいえば、オレはあんたを見捨ててしまったと思い、さまざまな妄想にかられだし、ついには自分があんたを自殺に追い込んだと思い込むまでになった。その手の妄想は案外、キツいものなので、オレは再びドラッグに逃げた。そんで、精神病院行という顛末さ。まあ、昔の話だが。その体験が、今書いている物語の基になっているわけだ。

だが、オレはあんたの変化の部分に注目している。このブログで再会を果たして以降のやり取りの中で、オレははっきりとそれを感じ取っている。だから、物語を続けるべきかどうか迷っている、そういうこと。


なににしても「円環」は閉じられなければならない。 自由放埒軒 2013-05-05 23:57
その「物語」はガジン自身の物語でもあるわけだから、吾輩がどのような変貌、変容、変節、変態をきたしたとしても、「ガジンの物語」として着地し、円環を閉じなければならない。円環を閉じられるのはこの世界に当事者であるガジンだけである。紡ぎ、書き継ぐうちにいかようにも「旅の姿」「様相」は変化していくだろう。それでいい。

1990年代末以降、インターネットという名の「嘆きの壁」によって吾輩は深く大きな「切断」と再生を経験した。だが、いかなる変貌と変容、変態と変節をきたしていたとしても、そこにはなにかしらの連続性を見いだすことは可能だろう。『スカンク・ボブのエクソダス』を書くことは、その「連続性」の謎、変貌、変容、変態、変節の意味を読み解く作業だと思えばいい。醜い幼虫から頑なさなぎを経て美しい成蝶へと成長する過程、メタモルフォーゼは永遠に一級の物語だ。『ギルガメッシュ神話』も『オデュッセイア』も『ヤマトタケル』も『アーサー王伝説』も、すべて「変貌と変容と変態と変節の物語」であるとも言いうる。「変わること」「動きつづけること」のない物語などにはひとかけらの価値もない。吾輩にできることについての協力は惜しまない。

ただし、吾輩をグリップしようと思うなら、まず自分自身をグリップすることから始めるべきだろう。精緻明瞭明晰な自己認識のない者が吾輩をグリップしようとしても吾輩に食い殺されるだけだ。それは互いの不幸である。それと、ぽつぽつと誤字があるぜ。いかんいかん。誤字脱字、「てにをは」の用法の誤り、文法上の誤謬は万死にあたいする。たとえ、数行のコメントであってもだ。140文字のTwitterでもおなじである。

吾輩のテクストを読んでいて気づくと思うが、吾輩のテクストにはほとんど誤字脱字、句読点の打ちまちがい、打ちそびれ、てにをはを中心とする助詞の用法の誤り、文法的な誤謬がない。なぜか? 書きあげたのちに徹底的に完膚なきまでにコミットメントし、誤りを修正訂正しているからである。その「作業」のときに併せて夾雑物を削ぎ落とし、より美しく、より凄味が効いていて、より強く、より精緻かつ明晰な表現となるように改める。これを何度でも繰り返す。これら一連の「作業」は、テキスト・エディタ上では微妙なニュアンスがわからないのでブログにアップした段階で本格的に行う。ブログの第一稿より最新のもののほうがより完成度は高くなっている。その分、勢い、鮮度は落ちるがこれはいたしかたない。喪失と成熟は常に表裏一体のものである。

徹底して「誤字脱字」「てにをはの誤り」「文法上の誤謬」を排除すること。「誤字脱字」「てにをはの誤り」「文法上の誤謬」は恥である。これを放置したままにする者は恥知らずであると看做していい。たいていの場合、恥知らずは「誤字脱字」「てにをはの誤り」「文法上の誤謬」を犯してもどこ吹く風といった風情でいやがる。不届き千万だ。「誤字脱字」「てにをはの誤り」「文法上の誤謬」を徹底的に排除する過程でテクスト、言語表現は研ぎ澄まされてくる。これは「反復継続」によってさらに精度と速度が上がる。徹底した校正、編集ののちに、テクストどもは吾輩の手を離れて虚空へと羽ばたいていく。


要再考、だな ガジン 2013-05-06 00:19
それだよ、それ。あんたに食い殺されるってやつ。

前にも書いたけど、オレはあんたに勝てるなどと思ったことは一度もない。このブログでやり取りを再開してからも、オレはあんたのエネルギーに飲み込まれそうになっている。すでにして。

それでは、また同じことになってしまう。オレが逃げるか、あんたがオレを捨てるか、さ。オレももう、50を超えた。また精神病院行なんてまっぴらごめんだ。オレにはオレの道がある。細くて頼りないこと、この上ないけど。

たぶん、オレはまだ、自分をグリップしきれていない。しばし、考えなければならない。物語を続けるかどうかは、それからだな。

まあ、あんたには勝って欲しいと思ってるよ。ネットに叩きこんだ言葉で、腐れた出版業界をKOして欲しい。あんたの高笑いが響く日を、期待して待っている。


「宇宙尻取り」をつづけるんだ、ガジン! 自由放埒軒 2013-05-06 03:27
スナフキン死亡 ⇒


寝起きだぜまったくもう ガジン 2013-05-06 10:22
うんこ状星雲渦巻く希望の国にエクソダスはなく起死回生の海星顧みて西部戦線異状なし⇒しりあがり寿が尻拭き忘れて異臭漂う異空間にきのこ頭の集うロックフェス⇒スポイルされたコーゾーの涙⇒ダミアン彷徨う六月の海に受胎された神の子を抱きかかえてああ苦しみのマリア様⇒マサチューセッツ工科大学で銃乱射事件勃発⇒妻夫木聡はいい奴だと聞くが爽やかすぎて気に入らねえ⇒え?私も笑うんですって?⇒テンダーロインステーキぱくつく野獣の背中から血煙上がり一億の窓は疾走する⇒ルー大柴の復活劇に涙した大鶴義理丹に「お風呂で抱いて」と言われたらとても嫌だ⇒


自由放埒軒 2013-05-06 10:32
⇒ 「だって埼玉だもん。抱けないよ」とダイダラボッチが言うのをダイナマイト片手に聞いていた大八車の團伊玖磨 ⇒ 「麻呂はまれびとなれども迷える羊」とマルシアが言うのを下で聞いていた大鶴義丹のZ日ぶりについて一家言持つマイルス帝が「それがどうした八百屋の五郎」とハイノートをヒットエンドラン ⇒ ランボルギーニの辣腕ぶりに舌を巻いたラスコーリニコフを尻目にラッツ&スターの鈴木が言うには「田代砲にはもうコリゴリだ。おれはゴリラなんかじゃない。一人もコリゴリラだ」とシャネルのを半笑いを浮かべて眺めていたココ・シャネル ⇒ 「ルー大柴さんが関東学院時代に当時中学生のセガさんにぶっちめられたのはココですか」と再び登場のココ・シャネルがハレクリシュナのオレンジ服をデザインしたのは晴れたパリの空の下のリュ・カンボン通りだが通りを挟んで向かいはオテル・ド・リッツの裏口 ⇒


ガジン 2013-05-06 11:19
千原ジュニアは大口開けて手を叩く以外に能がないと喝破したケンドー・コバヤシは芸無しの廉で障害者手帳を交付された⇒タイタン所属の若手芸人演じるオナニー・ショーを肴に夜ごと酒を飲む大田光代⇒ヨルダン川のほとりで曳光弾放たれ閃光映す川面に身を投げたのはサティではなくジュディ⇒胃潰瘍がかいいよう⇒生みの苦しみにのたうちまわる絲山秋子のブスな背中の人面瘡は福島瑞穂に瓜二つ⇒つりがね草匂う朝に目覚めた殺人者が路上に彷徨い出て歌うアリアに涙する神聖喜劇のブリキの兵隊⇒インディラ・ガンジーの手の中で扼殺された真夜中の子供たちは天へのきざはしを投げ捨て砂地に埋められた棺を探す⇒


自由放埒軒 2013-05-06 11:41
す ⇒ スースロフにイデオロギー・ラヴしたスンニ派のスンドゥブ導師は何を隠そうスマタ好き ⇒ 金魂巻のキモは煮ても焼いても茹でても蒸しても喰えぬ気持ちわるさ ⇒ サンディカリズムのさんざっぱらな惨状についてこれみよがしの作法で作文するサルトルのロンドンとパリに引き裂かれたサルマタ ⇒ ターメリックとウコンのちがいもわからないようなカレー市民の民度について癇癪玉を噛みながら可視光線に蟹股固めをかけるカール・ゴッチ ⇒ チュートリアルの徳井の得意技はチンチンカモカモであることを知るのは汁好きのチトー大統領 ⇒ 牛にひかれて善光寺参りするはずが閃光が痔に効くとヒサヤ大黒堂の第四十二代当主である久石譲に言いくるめられて大股開きの風を読む少女の本当の名はギンザナウ鹿 ⇒ 鹿がそっぽを向いているから無視することを「シカト」というらしいが本当は「渡嘉敷が死んでもみんな知らんぷり」の略 ⇒
 
[PR]
by enzo_morinari | 2013-05-06 03:28 | うつむきかげんのショータイム | Trackback

うつむきかげんのショータイム#003

 
c0109850_19314517.jpg


文体とは世界の息づかいである。E-M-M
絵に描いたステージは裸の王様たちのメッセージ 声にもならない僕たちのblues L-S-D


「宇宙を支配する巨大な意志の力」の導き2 自由放埒軒 2013-05-05 18:13

3. 記憶力と文体
さて、ここからいささか面倒厄介なフェーズに突入する。記憶、そして、記憶力の問題だ。吾輩は「記憶」を時間の集成集積ととらえている者だが、これが至極厄介だ。吾輩の「記憶」に関する諸問題の一端は「CEST(UTC+2)2012年10月27日午前3時2分の『LATE FOR THE SKY』#1」に書いてある。

吾輩は幸か不幸か、生まれながらに記憶力がいい。母親も父親も記憶力がよかったところからするとこれは遺伝的な形質であると考えてよい。こどもの頃から記憶力に関するパフォーマンスを褒められる局面が多かったが、吾輩は「記憶力がいいこと」にはなんらの意味も価値もないと考えている。失われた時間の集積をおぼえていたところでえられるものなどほとんどない。いやなことを思いだすほうが多いのだから当然だ。

「記憶」に関することでいいと思えるのは、「記憶の集積」「失われた時間」をランダムで読み出すときの精度と速度が常人よりも正確で速いということだろう。吾輩が言う「疾走する精神」とは「記憶の集積」「失われた時間」を読み出す精度と速度に関することだ。比喩暗喩でも象徴的なことでもない。実際に起こった出来事、過去の事実が猛烈なスピードで吾輩の意識を疾走し、駆けめぐる。そういうことだ。このことは吾輩にとってはきわめて具体的、リアルな現象である。嗅覚を刺激されることもある。ある記憶があるにおい、映像、音をもたらすこともある。プルーストの『失われた時を求めて』の紅茶とマドレーヌがきっかけで遠い夏の出来事が生起するという話を読んだときは「だからどうした?」との感想しか持たなかったな。「そんなものは当たり前のことだろうが」とね。

文章ならびに文体というのは各品詞の組み合わせによって善し悪し、スタイル、オリジナリティが決まる。品詞は有限だ。幽玄なる世界を生み出せるにしてもね。有限なものを用いて表現をするのであるから、そこには曖昧さ、不明瞭さがあってはならないというのが吾輩の立ち位置だ。視線、眼差しが行き届いていること。精緻であること。明晰であること。それは常に、いついかなるときにも心がけている。妄執妄念に苛まれて腐りゆく女のことを言語化するときであってもだ。視線、眼差しが行き届かず、曖昧で不明瞭な表現は、吾輩にとってはすべて「だらしない」ということである。目が行き届かず、目配りがきいておらず、だらしのない表現にはいささかも価値がないというのが吾輩の考えである。もっとも、吾輩はそんなものには一切コミットメントしないがね。表現されたものにも、それを表現した者にも。なににつけてもだらしないのはいけない。性にだらしないのは男でも女でも「物静かに退場しろ」というのと同様に、あらゆる局面でだらしのないものを吾輩は憎む。ときに踏みつぶす。あらゆる法令、あらゆる手練手管を駆使してだ。

精緻と明晰。これに寄与しているのが法律書を渉猟したことでえたリーガル・マインド、法律家気質だろう。これは文章、文体、言語表現の技術に関わることだ。表現、表出だけでなく、評価、鑑賞のときもリーガル・マインドは強く働いている。ルーブル美術館でジャック=ルイ・ダヴィッドの『皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式』を丸一日眺めているとき、吾輩はボナパルトの野郎を逮捕し、強制捜査に持ち込むネタはないかと横9メートル、縦6メートルの巨大な画面の端から端、隅から隅まで計測、分析した。

言語表現するとき、吾輩は吾輩の価値観、世界観、美意識にフィットしているか否かを常に計測しながら行っている。「内なるリズム」に合致しているかどうかも含めて。

4. 2ちゃんねるという「文体の戦場」
2ちゃんねるは言葉の戦場だ。視えない敵と視えない自由のために視えない銃で戦う冷酷非情、狷介剣呑きわまりもない戦場。手加減なし、容赦なし。あるかどうかもわからない「自由」を希求する戦場。勝利などない戦場。終戦も和睦もない戦場。終りなき言葉の応酬。疲れ果てるかみずから除隊するか新たな別の戦場をみつけるか。「あれかこれか」すらない。目の前にあるのは細く暗く荒れ果てた一本道だ。

甘ちゃんは2ちゃんねるという戦場では生き残れない。自滅するか一斉射撃、集中砲火、十字砲火を浴びて死ぬ。2ちゃんねるにおける死はすべて一様に犬死だ。孤立無援。孤軍奮闘。後方支援は絶無。戦友もいない。2ちゃんねるという戦場で戦っているのは全員孤立無援、孤独な兵士だ。

2ちゃんねらーはそれぞれが「たった一人の軍隊」の兵士だ。もちろん、精鋭、筋金入りの兵士から弾のこめ方、引金の引き方も知らぬような新米新参のなまくら兵士まで。悪意と怒りと憎悪と欲望と臆病姑息が渦巻く戦場。そのような苛酷困難な戦場で吾輩は言葉、文体にそれまでとはちがった磨きをかけた。ひと言、1行で敵を沈黙させ、「2ちゃんねるという戦場における死」、すなわち言葉の死をもたらす。レスポンスが遅ければすぐに「敗北認定」だ。絲山秋子もそんな戦場で言葉と文体を磨いたうちの一人である。吾輩は死屍累々たる荒涼とした戦場を2ちゃんねるの前身である「あやしいワールド」の時代から見てきた。いまはもう退役したがね。ごくごくたまに「ベテランズ・デー」にでも出かける気分で2ちゃんねるで新米兵士に精神注入棒を振り上げてやるくらいだ。

5. インターネット・ラジオという「文体の実験場」
2006年の秋口から約1年間、吾輩はねとらじ、インターネット・ラジオで番組を立ち上げてDJをやっていた。最初は数人に過ぎなかったリスナーはやめるときは常に数千人にまで膨れ上がっていた。最盛期(「最盛期」だって? あんなくだらないものが?)に吾輩はなんらの予告も事前説明もなくインターネット・ラジオをやめた。併設していたBBSも同時に閉鎖した。常連のリスナーどもはさぞ慌てふためき、落胆し、茫然自失したことだろうが、吾輩の知ったこっちゃない。彼らはFIN, THE END, 終は突如やってくるものなのだと学んだと諦めるしかない。

インターネット・ラジオで独り言やらレス読みやら選曲やらすることなんぞ、よほどの不器用者でないかぎり、1週間もやってりゃ、いやでも慣れる。いっちょまえになってしまう。しゃべりに慣れ、気の利いたアドリブのふたつみっつをタイムリーにかませるようになるまでのしんどさよりも、むしろ慣れてからの問題のほうがより重要だ。自分ひとりで自分自身をリボルブし、喝をいれ、気合いを入れ、叱咤激励し、喉をからし、血へどを吐き、気の利いた選曲をしつづけなけりゃならないんだから。

ゴールは視えないし、どこが・なにがゴールなのかさえわからない。あるいは、そもそもゴールなんかないのかもしれない。何時間しゃべくりたおし、何枚皿をまわしたところで、一銭にもならないことに血道を上げる。クールだ。ヒップでさえある。しかし、時間の浪費はなはだしいことこのうえもない。世の中にゴマンといるスットコドッコイ、ヘッポコ、スカタン、小心者、臆病者、卑怯者、下衆外道たちに、自由を撃ちぬくための銃をつきつける快感なら多少あるにしても、それとて、はやい話が自己満足とやらにすぎないといえばいえる。

バカでなきゃできない。バカだからできる。しかし、馬鹿の数ある中でも勇気あるバカだ。くっさい息を吐きちらす利口馬鹿よりは格段に上等だし、痛快だ。臆病者・小心者・揚げ足取りと重箱の隅突っつきくらいしか能のない訳知り顔野郎どもにはできない「芸当」だろう。自由を撃ちぬくための銃を持つことすらしない者たちとは遠くはなれて、危ういタイトロープをただひとりゆく厳粛な綱渡りには、その対価として、なにがしかの達成感が用意されていると吾輩は思った。

熱烈なラジオ投稿少年の日々をすごした吾輩にとって、近頃のFM、AMラジオはまったくつまらない。だから、聴かない。聴かない理由はふたつ。ひとつはかかる楽曲がつまらないから。各楽曲が有機的に連環しておらず、物語性、ストーリー性がないから。いったい何を気づかい、迎合しているのか知らぬが、キーキー声、カーカー声のJ-POPとやらを延々と垂れ流すラジオ・ステーションばかりである。ラジオにかぎらず、この国のほとんどのメディアは「キーキー&カーカー」にすり寄り、そのオンパレードである。もっと言えば、日本国全体が「キーキー&カーカー」にぺこぺこしている。いったいいつから、そしてなぜ、洟垂れ小僧、能天気小娘どもに媚びへつらうあさましい国になってしまったのだ?

理由ふたつめ。DJ、パーソナリティーのトーク、べしゃりがつまらないから。軽佻浮薄きわまりない「のり」だけで番組を乗り切ろうという魂胆がみえみえである。かつて、ミスターDJ、糸居五郎は言ったものだ。

リクエストはいっさい受けつけない。私の番組は私の物語であり、かける音楽はその物語の一部である。

インターネット・ラジオ(ねとらじ)は面白かった。ピンからキリまで。サルトルから競馬からネトゲからデリダから人の道に外れて刑務所・更生施設を行ったり来たりした爺さんから「かかってこいやぁ!」の相沢から下衆外道からヤクザもんから萌え声から甘い16歳から癒し系から松田聖子にぞっこんのカズノコ天井人妻から衝撃のケルト赤Tシャツ(妖精の国から、こんにちは)から天然ブルースマンから電波系から人妻のグレーな鼻息から宇宙人を養成しちゃうのからオナニー実況まで、いま世界で起こっている事態、事象、現象の象徴がそこにはあった。しかも、24時間、365日。スポンサーなし。吾輩にとって、インターネット・ラジオは解放区だった。支配原理はただひとつ。自由放埒。

インターネット・ラジオにおいて効果があるのは声質、間合い、名辞、テンポ、リズム、ユーモア、そして「知の反射神経」だ。形容詞、副詞をはじめとする修飾語はほとんど使いものにならない。使いものにならないどころか害悪でさえある。世界のどこのだれとも知れない者どもが息を殺してディスプレイに向きあい、吾輩の「言葉」「文体」に耳をすましている。インターネット・ラジオもまた2ちゃんねる同様に「言葉と文体の戦場」だった。少しでも気を抜けばチャンネルをかえられてしまう。STAY TUNEさせておくためにはひと言ひと言、1フレーズ1フレーズがキレていなければならない。知性のあるなし、高低、センスのあるなし、善い悪いはすべてチャラにされる。知性の「ち」の字もないような輩も耳をそばだてている。

トークに対する反応はBBS, 掲示板に即座に現れる。大昔なら投稿葉書、ファクスというところだが、決定的にちがうのはほぼリアルタイムであるということだ。タイムラグはせいぜい数秒だ。サーバに一旦蓄積された「音声データ」がネットの回線を通じて配信される分のタイムラグ。

吾輩がしゃべったことに対する反応はすぐにある。掲示板は1000本の投稿でひとつのスレッドが満杯になるのだが、5分も経たずに1000本のコメントでスレッドが埋まってしまうこともしばしばだった。現在性、「今」性の塊である1000本のコメント。ジャック・デリダ、ミシェル・フーコー、三島由紀夫、小林秀雄からロリねた、コスプレ、コミケ、おまんこ、おねいちゃんの口説き方、酒の飲み方、きょうの晩御飯まで。エスプリとウィットの効いた質問から愚にもつかぬ大演説まで。まさに玉石混淆、ピンからキリまで。リスナーは引きこもり、指名手配犯、精神に闇を抱えた者、匿名をいいことに荒らしに走る臆病姑息小児病患者どもから東大教授まで。それらの有象無象、海千山千をグリップするのは困難を極めた。リアルタイム大容量雑多な投稿コメントの中から瞬時にネタを拾い、時事ネタを織り交ぜながら簡潔シャープで気の利いたトークをする。失敗すればリスナー数はみるみる減っていく。数千人のリスナーが一気に数十人にまで減ったこともある。インターネット・ラジオ、ねとらじはまさに吾輩の「言葉の実験場」だった。2ちゃんねる同様戦場でもあった。吾輩はその戦場における「たった一人の軍隊」だった。

吾輩はこう考えた。「いまおれのラジオを聴いているのは知性ゼロ、センスゼロ、才能ゼロ、狭量跛行歪曲の下衆外道どもだ。こいつらをリボルブさせること。やつらの空っぽの弾倉に弾丸を装填すること。それがおれがインターネット・ラジオをやる意味だ」とね。吾輩の目論みはほぼ成功した。成功したと思ったとき、吾輩はインターネット・ラジオをやめた。あとには少しの満足感と悔恨と、そして故郷を失ったような痛みが残った。
 
[PR]
by enzo_morinari | 2013-05-05 19:31 | うつむきかげんのショータイム | Trackback

うつむきかげんのショータイム#002

 
c0109850_616111.jpg



傲慢な憂いの影がまた夢だのかんだの get away
願望は風に吹かれるまま twist and shake
L-S-D

説明しなければ伝わらないことは説明する価値のないことである。E-M-M


緩まぬ文体の謎 ガジン 2013-05-05 00:13
くっそー。ブログ全体を何度か読み直してるのだが、あんたの文体、緊張感が張りつめてるんだよな。もちろん出来不出来はあるわけで、オレは『虹のコヨーテ』が一番好きだが、総じてエクリチュールの強度を感じる。

オレはときとして、自分の文体がだらだらと弛緩してしまうのを感じ、すべて破り捨てたくなる。精神の緊張度の差かね。それこそ、金属の意思ってやつか。それとも技術的な問題か。

別におもねるつもりはないが、今日は嫉妬で仕事をする気を失った。さっき久々に快心のおまんこをキメたし、とりあえず風呂でも入るか。


「宇宙を支配する巨大な意志の力」の導き 自由放埒軒 2013-05-05 01:59
韜晦も狷介も剣呑もなくガジンの言う「緩まぬ文体の謎」について申し述べる。ガジンはほぼ問題の核心に迫っているというのが「結論」だ。

1. 初めに「文体」ありき。
吾輩はあらゆる現象、事象、事態、ヒト、モノ、コトについて、「吾輩の文体」に言語化することをしつづけてきた。「文章」ではなく、「文体」である。文体は「スタイル」と言い換えて差し支えない。それは記憶するかぎりにおいて3歳くらいからである。もちろん、「吾輩の文体化」の作業がうまくいかないこともあった。いや、そのほうが多かったろう。そのたびに吾輩は炸裂し、爆発した。あるときは暴力のかたちをとり、脅迫/強要のかたちをとり、号泣のかたちをとった。吾輩は吾輩の周囲、つまり世界で起こっていることのすべてをグリップしようと躍起になる性向がきわめて強いので、「文体化」できない苛立ちがいつもあった。

吾輩は欲求が満たされると眠りにつくこどもだった。同時に欲求が満たされないときは寝つきが悪いか寝つかない。吾輩の不眠症傾向は幼児の頃からだ。眠りは常に浅く、短い。起きているあいだ中、吾輩の意識、精神は跳梁し、疾走して世界をグリップしようとした。そのたびに、「文体化」できない苛立ちが起こる。覚醒している時間が長いのだから、「文体化できないことによる苛立ち」も比例して増える。そんな人生である。

吾輩は物心ついてからきょうまでに町の小さな図書館が所蔵する書物の三分の二ほどに匹敵するテクストを読んできた。膨大だ。しかし、吾輩の読書スタイルは「ストーリーや登場人物の心理をほとんど読まない。斟酌しない」というものだった。小説、物語以外の自然科学、社会科学分野のテクストはストーリーを辿ったり、登場人物の心理、綾などを読まずにすむので心地よかった。吾輩が一番好きなテクストは数式である。もちろん、銀行通帳の入金欄と残高も。バーナード・ショーはわが師匠の一人である。

吾輩はいつからかすべてのテクストをOne Line, 1行ごとに味わうようになっていた。「この1行はいい」「この1行はダメ」というように。この読書スタイルは「デジタル読書」と呼びうる。中上健次が『十九歳の地図』で「イケすかない家」に○と×をつけたように吾輩はテクスト、さらには世界と対峙し、向きあってきた。吾輩はそのようにテクスト、世界に○と×をつけつづけた。吾輩の世界観に関する総論部分の一部を言えば、「世界とテクストのほとんどは×でできあがっている」ということになる。

このことは音楽、美術、映画、食、人間、人物、メイクラヴ、服飾、趣味趣向、酒等々についても同様である。文体化できない/文体に合わないモノとコトを吾輩は徹底的に忌み嫌い、排除した。それらをバッシングする時期が長くつづき、つづいてパッシングする時期があり、いまではナッシングだ。吾輩の文体に合わないモノとコトは吾輩にとっては存在しないも同然である。文体化できないモノとコトもだ。蛇足ながら言うと、ガジンの存在態様とテクストは吾輩の文体にフィットしている。1995年の秋にガジンが表出した「意志の中心がメタル。」「鎮魂のイストワール」のふたつは吾輩が世界を観察計測し、解釈するときの物差しのひとつとさえなっている。


2. クール&スマートであること
吾輩は田舎者と野暮天とニブ助が嫌いである。吾輩は天下御免のイジメっ子だったが、吾輩の「イジメ」の対象は田舎者、地方出身者、野暮天、知の反射神経がにぶい者だ。

世界のほとんどは田舎者、地方出身者、野暮天、知の反射神経がにぶい者が占めているのでとても疲れる。彼らはいまや吾輩にとっては「存在しない者たち」となったので疲労感は幾分か軽減された。

過去に「田舎者で野暮天で知の反射神経がにぶい者」が一人いた。吾輩はその者がこの世界から消えてなくなることを強く願った。呪詛した。その者を知り、憎悪し、呪詛するようになってから3ヶ月後、その者は謎の死を遂げた。吾輩が具体的にその者になにごとかをしたわけではない。実際に会ったのも数回にすぎない。その者の死はいまでも不思議だ。

吾輩は「クール&スマート」をアメリカのペーパーバックに求めた。探偵小説が中心。中でもレイモンド・チャンドラーとミッキー・スピレーンだ。矢作俊彦も100のうちふたつかみっつの割合で「いい1行」を放り込んでくる。吾輩にとっては太宰治はすべてのフェーズでお話にならない。

音楽ではマイルス・デイヴィス、クリフォード・ブラウン、タル・ファーロウ、ビル・エバンス、チャイコフスキー、グスタフ・マーラー、ゴンチチが吾輩にとってはクール&スマートだな。服飾、食、映画、美術にも吾輩にとってのクール&スマートがそれぞれ数少なく存在する。吾輩はそれらに繰り返し繰り返し、徹底的にコミットメントした。気がつけば彼らの世界観、価値観、美意識、物差しは吾輩自身の世界観、価値観、美意識、物差しになっていた。

吾輩はいつしか「クール&スマートであること」に至上の価値を置くようになった。「クール&スマートであること」に反するコトとモノとは反目敵対するか排除するか距離を置くか黙殺した。いまでは黙殺が「反/非クール&スマート」への対処法である。

吾輩がおべんちゃら、きれいごと、おためごかしを忌み嫌うのはおべんちゃら、きれいごと、おためごかしを並べる輩は例外なくクール&スマートではないからだ。

クールでなく、スマートでないものを嗅ぎ取ったときは即座にその場を立ち去るか、踏みつぶすかしてきた。おかげで敵、反目する者が山ほどできたがね。吾輩は彼らをお笑いぐさのひとつとしか見ず、お笑い草として刈り取るか除草剤を撒くかすればいいだけのつまらぬ存在としか見ない。それはこれからも変わるまい。

「霜取り装置の壊れた冷蔵庫」はクールでもスマートでもない。「そんなものはただのポンコツボンクラヘッポコスカタンだ! とっとと捨てちまえ!」というのが吾輩の揺らぐことなきスタンディング・ポジションである。不全感の補填は村上春樹の仕事だ。

「クール&スマート」のいいところは余計なもの、夾雑物が少ないところだ。それを洗練と言ってもいいし、「センスがいい」と言い換えてもいい。吾輩が言語表現をするとき、名詞名辞の夥しいほどの連なりを吐き出すことがよくあるが、それ以外の部分は極力余計なもの、夾雑物、混みいった心理の綾、しがらみの類いは意識して排除する。

遠い日の夏に読んだ「神は細部に宿る」というポール・ヴァレリーの言葉にはいまも勇気づけられ、励まされ、リボルブされている。「苦しみつつなおも働け。安住を求めるな。この世は巡礼である」というストリントベリィの言葉もだ。

吾輩のテクストのいくつかを読んだ高畑勲は「タイプライターの音が聴こえる」と表現した。最高の誉め言葉と受け止めている。吾輩はスミス・コロナ社のRoyal Quiet DeLuxe-Model1942のように在りたい。「噴きこぼれるように在る」のは中上健次の専売特許として任せることにしてある。共感やら慰めやら癒しやら不全感の補填は村上春樹に。


文体=ロゴス論 ガジン 2013-05-05 03:55
たとえばオレは、『虹のコヨーテ』のスリリングな物語の開き方について、技術論的に展開してみようかと思っていたわけだ。コヨーテの登場から私とコヨーテの旅立ちまでの流れを、情景描写・視点人物の心理描写、ト書きの三点セットを組み合わせて読者の腑に落ちるように展開しようとすると、普通、かなりの文字数が要るわけだ。が、あんたはそれを数行でやってのけている。その秘密は、ある独自の遠近法=パースペクティブにある、という具合に。

しかし、事は技術論の射程には収まりそうもないな。たとえば、目前の情況なり情景なりを言葉に置き換える訓練というのは、物書きなら大抵の奴は(イシダイラでさえ!)している。しかし、あんたのいう「吾輩の文体」に言語化することとは、そうしたコカコーラ・レッスンとはかなり違う。

問題は「文体」だ。あんたは「文体」を狭義のエクリチュールとしては捉えていないね。直観的に言えば、それはイデアでもクオリアでもミームでもなく、ロゴスに近いものだという気がする。その文体というロゴスを、あんたは生得的に、生まれつきもっていたのか。それと「宇宙の意思」「金属の意思」はどうかかわるのか、その辺、興味は尽きぬ。

クール&スマートか。確かにあんたの文体には夾雑物が少ないよ。たぶん、好みではないだろうけど、もう一人、そういう作家を知っている。絲山秋子。かわいそうなぐらいのブスである。ギタリストでいうとケニー・バレルが思い浮かぶ。音数少なく、確実にブルース・フィーリングを射抜く男。速弾きの、饒舌なギタリストにロクなのはいない(唯一の例外がフランク・ザッパ)。悪い、寝落ちしそうだ。


インターリュード/絲山秋子のこと。 自由放埒軒 2013-05-05 04:19
遠近法。よくぞたどり着いた。さすがメニエール・ダンスの名手にしてキシキシピャッピャッ・マイスター、テテ・モントリューの舎弟だけのことはある。

吾輩がもっぱら使う遠近法には大きく分けて三つの「視点」がある。ひとつは吾輩の意識の視点、ふたつは対象の視点、そしてみっつが両者を自在に行き交う視点(「脱時間の視点」と吾輩は名づけている)。吾輩はこのみっつの「視点」によって世界と向きあい、記述する。

第一の視点と第二の視点は固定する。面白く厄介なのは第三の視点、「脱時間の視点」だ。この視点は制御できない。吾輩の思うままにはならない。「勝手に動く」からである。そのときに聴いている音楽、耳に入る音、雑踏、気配、空気の流れと澱み、視野視界に入っている事物、事象、事態、現象、匂い、気温、湿度、風向き、光の具合等々によって「脱時間の視点」は自在放埒に動きまわる。瞬時に。あるいはもどかしいほどに時間をかけて。

静止するときもある。静止したまままったく動かないときもある。第一の視点寄りに位置するときもあれば、第二の視点のすぐそばで吾輩のほうを観察計測分析しているときもある。

「脱時間の視点」は「縁」の類いによってその動き、ふるまいを決定しているというのが吾輩の考えだ。いずれにしても、吾輩はこれらみっつの視点のそれぞれから観察計測解釈したもののなかから「モノになりそうなモノとコト」を抽出し、言語化、文体化する。さらにいくつかの言語化、文体化されたもののなかから切れ味、凄味、響き、品性品格、重厚荘重荘厳、叙情、情念、論理等のフィルターによってふるいにかけられて残った「唯一のもの」「かけがえのないもの」を選択し、記述する。

これらの作業は一瞬にして行われる。なぜこのような複雑で高度な知的技術を要する作業を一瞬でできるのかについては吾輩自身も解明できていない。とりあえず、「宇宙を支配する巨大な意志の力」の導きであるという仮りの「答え」を吾輩は出している。

絲山か。イジメたな。2ちゃんねるの「無職ダメ板」で。コテンパンにした。そのたびに絲山は武装を一新し、強固にして起ちあがってきた。そして、最後は静かにみずからを武装解除し、袋小路から出ていった。みごとな引き際、散り際だった。

「こいつはモノになる」と思った。間もなく文学界新人賞と川端康成文学賞を立てつづけに獲った。御祝儀に匿名で100万贈ってやったが、いまに至るも訝しがっているだろう。あるいは、祝儀袋に「語りつくせぬことについては沈黙せよ」と書いてやったから吾輩のことだと勘づいているかもしれないが、会ってもおくびにも出さない。強かなやつだ。

絲山秋子の「ブスっぷり」には思想があるから吾輩はゆるせる。あいつの「文体」がキレているのは2ちゃんねるで「文章修行」「コカコーラ・レッスン」したからだろう。

吾輩は絲山秋子は幾分か評価しているが、総合的総体的なセンスがアレだからな。やはり、これからも吾輩にいじめられつづけるだろうな。

つづきはまたにしよう。吾輩はパット・メセニーとジム・ホールのデュオ『Softly as in a morning sunrise』を聴きながら朝陽を拝することとする。大いなる眠りは遠く、夜明けは遠い。
 
[PR]
by enzo_morinari | 2013-05-05 06:16 | うつむきかげんのショータイム | Trackback