カテゴリ:コアントローポリタンの女( 4 )

コアントローポリタンの女

 
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どこにも行きたくない者にとっては世界のどこであろうと地の果てだ。E-M-M


電話の呼び出し音。世界の果てにあるヒッコリーの森の木樵小屋からだ。木樵の家族の笑い声。薪割りの音。小鳥たちのさえずり。顰めっ面をした騎兵隊長のナッツクラッカー大佐がクルミを割っている。ヒッコリーの老木が倒れる音もする。

夢か? いや、すべてが夢というわけではない。電話は確かに鳴っている。神経を逆撫でする呼び出し音が少しずつ大きくなる。眠りが醒めてゆく。しかし、眠りは充分ではない。もっと眠れ。眠りつづけろ。起きるな。世界の果ての森から、そう命じる者がいる。ヒッコリーの森の番人だ。このままでは1日が台無しになってしまう。たいていのことは1本の電話から悪い方向に向かうのだ。

重い泥濘の底から錆ついた意識が徐々に浮かびあがってくる。頭が痛む。ずきずきする。目蓋が重い。熱い。沸騰寸前。眼球が飛び出しそうだ。首筋が少し焦げている。やけどでもしたのか? ピンク・ドラゴンに火焔を吹きかけられたか? それとも、地獄の業火に焼かれたのか? 焼きたてのピッツァ・クワットロ・フォルマッジをぶつけられたのでなければいいが。あれはあとで臭くていけない。洗濯屋のおやじの仏頂面など見たくない。嫌味ったらしいうえに退屈な軽口を聞かされるのも御免だ。ぶつけられるならピッツァ・マルゲリータがいい。なにごともシンプル・イズ・ベストだ。さらに電話の音は大きくなる。

ひどく喉が渇いている。唾も出ない。口の中にゴビ砂漠でも入っているようだ。月の出ていないざらざらした舌の上を2頭のフタコブラクダが通りすぎる。砂漠の商人たちのキャラバン隊は喉仏を越え、オアシスを目指して先を急ぐ。

死ぬ前の幻覚か? こうやって人間は死んでゆくのか? なんて死に様だ。大脳と小脳が脈打つ。O.K. 死神さんよ、いつでもいいぜ。心残りはいくつかあるが、一番残念なのは世界の終わりを見届けられないことだ。あとのことはひと山いくらで叩き売るがいい。死ねば「世界の終わり見届け同盟」も即刻解散だ。

猛烈な吐気が襲ってくる。地獄の亡者どもが胃を鷲づかみにしている。吐気と痛みに思わず唸り声が出る。すべては昨夜飲んだスピリタスのせいだ。

スピリトゥス・レクティフィコヴァニ。ポーランドの火の酒。世界最高純度のニュートラル・スピリッツ。無水アルコールまであと3歩。いや、2歩。

「燃料」と「危険物」の表示がある。火の酒どころか、悪魔の酒だ。ポーランド西部ヴロツワフのポルモス・アクワヴィト蒸留所製。アクワヴィト? 生命の水? 冗談じゃない。死の水だ。alc/vol 96%の酒など飲むものではない。人生をまっとうに平穏無事にやりすごしたければ飲んではいけない酒だ。それを1本半。マイク・ハマーはギャングの手下にスピリタスで酔いつぶされた挙句にイースト・リバーに投げ込まれ、魚のエサになりかけた。マイク・ハマーよ。あんたに悪運がなければ二度とヴェルダの「100万ドルの脚線美」は拝めなくなっていたところだぜ。ずいぶんと肝を冷やさせてくれたものだ。

ニューヨーク市マンハッタン三番街西24丁目レキシントン大通りのマイク・ハマー。よく聴け。大審問官はスピリトゥス・レクティフィコヴァニだ。裁くのはあんたじゃない。毒蛇もそうそう隙を見せはしない。

He will kill you, Deadly. 血にまみれた手を広げてよく見るがいい。もはやあんたの手の中に「復讐」の二文字はない。小石の礫で巨人ゴリアテの骨は軋み、若い羊飼いに首を刎ねられる。戦いは剣と槍の力だけで決するとはかぎらない。剣とサンダル。槍と知恵。闇に支配された裏通りは血まみれの夜明けとともに赤く染まる。デルタ係数が冷厳冷徹に死者をカウントする。手加減はない。容赦もない。些細なことで銃弾の日々は永遠に終わりを告げる。もう愛しき者の接吻は燃えない。大いなる殺人のあとには大いなる眠りが待っているものだ。

電話の呼び出し音はさらに大きくなる。そうか。明方近くに帰ってきて、着替えもせずにベッドにもぐりこんだのだ。少しずつ記憶がよみがえってくる。ほかの記憶は失っても、飲んだ酒の種類と飲んだ酒の量は忘れない。特技と言っていい。いったい今は何時なんだ? 眼がかすんで時計の針が読み取れない。いい年齢をしてまったく馬鹿な飲み方をしたものだ。

思いきってベッドから抜け出し、キッチンに向かう。電話は鳴りつづけている。悪意さえ感じる。ほっておけ。今日は臨時休業にする。美人秘書もモーレツ社員も命知らずの手下もいないがボスはこの私だ。ルールは私が決める。私が掟だ。

冷蔵庫を開け、『ジャールートの泉の水』を取り出して飲む。1ℓをいっきに飲みほす。もう1本出して半分飲む。生きかえる。死にかけていた細胞どもが息を吹きかえす。

ジャールートの泉の水 ── 素晴らしい水だ。「生命の水」と呼ぶにふさわしい。木っ端役人どもにいいように操られて棺桶に片足を突っ込んだ国の放射能まみれの水とは大ちがいだ。

正しいプリンシプルとまともな神経の持ち主は姑息で卑劣な木っ端役人どもが好き放題やっているGDP世界第3位(PPP世界第19位)の国の水など飲むべきではない。原理原則が揺らぐ。魂が腐る。そんな水がふさわしい輩はほかにいくらでもいる。

『ジャールートの泉の水』はカサブランカの旧市街で酒場を経営するモロッコ人の戦友が送ってくれた。

時代が変わり、世界が変わり、時がいくら過ぎゆきても、
我々の友情に潤いと信頼とアッラーの思し召しが常にありますように。
As Time Goes By & Here's looking at you, Kid!


へたくそな手書きのメッセージが記された『カサブランカ』の絵葉書付き。砂漠の民の友情は歳月を経ても変わらない。

エマヌエル・カントが不寝番をしていそうな殺風景な仕事部屋に入る。ブラインド越しにふやけた陽の光が射し込んでいる。デスクの椅子に座る。電話はまだ鳴っている。鳴り響いている。しつこい奴だ。喧嘩でも売っている気か? 喧嘩ならいつだって買ってやる。

「黙れ! とっとと失せやがれ!」

怒鳴りつけても凄んでも電話は鳴りやまない。鳴りやむ気配もない。しかし、電話には出ない。今日は臨時休業と決めてある。すでにロング・バケーションの真っ最中だ。ミスター・ペーパーバックに変身して、パンナム・エアのアトランティック・バード号でニュープロビデンス島に乗り込み、海岸でモヒートをちびちびやりながら『ナッソーの夜』を読むのだ。そのあと、アンドロス島のウェルター級アマチュア・チャンプだった男がやっているレフトフック・バーで島一番のギムレットを2杯飲んでから、夜はブルネット・グラマーとお愉しみという筋書きだ。

スー族の勇者、稀有なる男、クレイジー・ホースになるという手だってある。質素な身なりをして、何者にも腕をつかませず、自分のための物は持たない。弱き者を助け、貧しき者に分け与える。不思議な力を持つ石は耳の後ろに挟んである。リトル・ビッグホーンで262人の男たちを死に追いやった見栄っ張り大馬鹿長髪野郎のカスター中佐は何度でも地獄に送ってやる。老いぼれのクルック将軍はパウダー川に放り込む。そして、最後はロビンソン砦に突撃だ!

「ホカ・ヘー! おれにつづけ! 今日は戦うにはいい日だ! 死ぬには手頃な日だ!」

しかし、電話は鳴りやまない。人生、そうそう思いどおりにはいかないものだ。しかたなく受話器を取る。聞いたことのない外国語 ── たぶん、外国語だ ── で嗄れ声の女がまくしたてる。女の声がびりびりと鼓膜に響く。

何語だ? ラテン系か? エスペラントではない。エウスカラでもない。ヴォラピュク語か? ソルレソル語? 面倒なので思いつくかぎりの肯定の言葉を並べてやる。イエス、ウィ、シー、スィン、ヤー、ダー、アノ、マリスタ、ヌダロギ、ンディヨ、エヴェット、ホウッケノ、ジハ-ン、キュッラ、ダウモ、スウィマ、スウェン、ティ-ム、ズ-ガッ、ハイ、モケソケ ──。

「モケソケ」と言ったところで、「オキュオキュ」と明るい声が返ってくる。トレーン語だったのか。突然、電話が切り替わり、馴染みのある言葉が耳に飛び込んでくる。

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聞き覚えのある声。1週間前になにも告げずに姿を消した女だ。私の声を聞いたとたんに女は電話口で泣きはじめる。ひとしきり泣くと、次は怒鳴る。叫ぶ。酔っている。ひどい酔い方だ。いったい、どれくらい飲めばそれほど酔うのか。もちろん、私が言えた義理ではないが。

女はありったけの罵詈雑言を交えて私の不実をなじる。責め立てる。たぶん、私がなにか悪いことをしたんだろう。私はよく悪いことをする。悪い人間だと言われる。いまに始まったことではない。急に女が黙りこむ。PCを起動する。HDを読み込む小気味いい音。目蓋に熱っぽさは残っているが意識は冴え冴えとしている。酒の酔いと電話口で泣く女のこと以外はきれいさっぱり頭の中から追い出したせいだ。電話の向こう側から街の音が聞こえはじめる。

エンジン音。クラクション。ブレーキ音。衝突音。駅のアナウンス。駄々をこねる子供。雑踏。雨音。爆発音。怒鳴り声。また別の怒鳴り声。犬が吠える。罵り合う声。また別の罵り合う声。ゲンスブールの古い歌。サイレン。生きている街の音。時報。2時だ。ゲンスブールの別の古い歌。

女は一体全体どこから電話してきてるんだ? いまどき、ゲンスブールの歌が続けて流れる街などこの世界にあるのか? そんな街は決定的になにかが狂っている。大事なネジが何十本も抜け落ちている。生きていくうえで絶対に必要な大切ななにものかが欠落している。住んでいるのは裏切りと背信と不道徳をなんとも思わぬ恥知らずばかりのはずだ。

恥知らずほど手に負えない者はいない。恥を恥と思わない者に比べれば愚か者のほうが経験から学ぶ分だけまだ救いがある。恥知らずどもがいくら乙にすましていてもおまえたちのやってきたことはすべてお見通しだ。

女の泣き声がまた聞こえはじめる。泣きじゃくる。女の繰り言。溜息。悲鳴。懇願。猫なで声。怒鳴り声。沈黙する私。さらに沈黙する私。雨音が大きくなる。泣き声も大きくなる。泣き声がやむ。女が息をのむ音。女が口を開く音。

「帰りたい。どこでもいいから、いますぐ帰りたい。ここはひどい街」
「いま君はどこにいるんだ?」
「遠いところ。すごくすごく遠いところ。あなたに言ってもわからない」
「ニューヨークも遠いし、パリも遠いし、ニュープロビデンス島も遠いし、ロビンソン砦も遠いし、チェルノブイリも遠いし、トーキョーも遠いし、たぶん冥王星はもっと遠い。いまの僕には眼の前のセブン-イレブンだって遠いよ。どこにも行きたくない者にとっては世界のどこであろうと地の果てだ」
「混乱させないで」
「君は初めから混乱してたじゃないか」
女がなにかを飲む音。耳を澄ます。女はなにかを飲んでいる。
「いま、酒を飲んだな?」
「そうよ。フレッシュ・レモンとクランベリー・ジュースとコアントローのノワールとクラッシュ・アイスを混ぜたものを飲んだの。『S & TC』のキャリー・ブラッドショーがいつも飲んでいるカクテルよ」
「『S & TC』ってなんだ? キャリー・ブラッドショーって誰だ?」
「『Sex and The City』よ。アメリカの人気ドラマ。キャリー・ブラッドショーは『S & TC』の主人公。サラ・ジェシカ・パーカーが演ってるの」
「知らないね。知りたくもない。どうせ、恥知らずな女が恥知らずなことをする罰当たりで破廉恥な話だろう? そして、酒屋には恥知らずな酒ばかりが並んでるんだ。醸造用アルコールたっぷりのな」
「見たこともないのにどうしてそんなことが言えるのよ」
「見なくたってわかる。鼻だけはよく利くもんでね」
「いいから黙ってあたしの話を聴いて」
「朝陽のように爽やかで、明るい表通りに面したオープン・テラスの店で二人でお茶を飲みたくなるくらい気分がよくて、夢見のいいのを頼む」
「この街ではね、コアントローポリタンでは『Sex and The City』を毎週見て、いつもこのカクテルを飲んでなきゃいけないのよ。そういう決まりなの」
「そんな馬鹿げた話があるもんか。コアントローポリタンなんて街は聞いたこともない。これまでに世界中をほっつき歩いてきたこの僕がだ」
「馬鹿げてても本当のことなんだから仕方ない。あなたが知らなくてもコアントローポリタンは実在するし、『Sex and The City』を毎週必ず見る人たちがいるの」

コアントローポリタン」をネットで検索する。1930件のヒット。「COINTREAUPOLITAN」でも検索。27200件のヒット。

カクテルの名前じゃないか。馬鹿馬鹿しい。老舗のコアントローもどうかしてる。鼻持ちならない広告屋だかプランナーだかのボンクラどもにまんまと乗せられて、がっぽりふんだくられた挙句の馬鹿馬鹿しいパブリシティものにすぎない。ひとかけらの価値もない。

フレッシュ・レモン? クランベリー・ジュース? ヘミングウェイもフィリップ・マーロウも飲まないカクテルであることだけは確かだ。見向きすらしまい。リップ・ヴァン・ウィンクルさえ鼻白む。マイク・ハマーなら袋だたきのうえに鉛の弾を弾倉が空になるまで撃ち込む。

「話はわかったから帰ってきなさい。そして、酒を飲むのはもうやめるんだ」
「あなたにあたしの何がわかるっていうのよ。うだつの上がらない中年のアル中には何も言われたくない」
「そうか。それなら、好きにするがいいさ」
「リップ・ヴァン・ウィンクルなんかに負けない。負けるもんですか ── 」

電話はそれで切れた。

コアントローポリタン」について調べる。ディータ・フォン・ティース? 恥知らずの馬鹿女じゃないか。別れた元旦那はマリリン・マンソンとかいう虫酸が走るような下衆野郎だったはずだ。お似合いといえばお似合いだ。変態ポルノを見せつける親戚? 服を脱がせて囚人ゲームに興じる隣人? ベトナム戦争で一般市民を殺した父親? 地下にマスターベーション部屋をつくっていた祖父? そんなものはいまどきセブン-イレブンのレジ横に山積みで置いてある。

トラウマを売り物にする奴にろくな者はいない。スピリタスを2、3杯も飲めばすぐにも忘れてしまう程度のつまらぬことを後生大事に抱え込んだ上に他人に見せびらかす類いだ。どれほど大きくて深い傷であろうと、傷も傷痕も誰にも見えないようにひっそりと隠しておかなければならない。それが人生の流儀、作法というものだ。世界に対して同情を要求する資格があるのは、夕闇迫る雨のバス停で傘もレインコートもないまま震えて立ちつくす女の子だけだ。

また電話が鳴る。受話器を取る。さっきの嗄れ声女だ。

「モケソケ」
「オキュオキュ」

すぐに電話が切り替わる。街の音。女の荒い息づかい。息のにおいと熱までが伝わってきそうだ。

「助けて」
「どうすればいい?」
「とにかく助けて」
「だから、何をすればいい?」
「こうして話してくれるだけでいい」
「電話代が高くつきそうだな。これ、コレクトコールだろう?」
「電話代がなによ! あたしがいままであなたにどれだけつくしてきたか考えたこともないくせに!」
「わかったよ。コアントローポリタンの話を聞かせてくれ」
「あたしの話をちゃんと聞いてくれる?」
「聴くさ。ちょうど退屈しはじめたところだし」
「あたしを退屈しのぎに利用するってこと?」
「まあまあ。そう尖るなって」
「コアントローポリタンに着いた日に、観光案内所でピンク色の小さなトランクをもらったのよ。コアントローポリタンに来たら誰でももらえるの」

ピンク色のトランク・ケース? ひどい趣味だ。目の前に300kgの金塊を積まれてもお断りだ。

「中になにか入ってたのか?」
「もちろん。コアントローのノワールとブランが1本ずつ。シェイカーとカクテル・グラスとロング・グラス。それとディータ・フォン・ティースのDVDも。トランクは彼女の直筆サイン入りよ」
「そんなもの、いますぐ捨てちまえ」
「捨てられるわけないじゃない。そんなことしたら、すぐに捕まっちゃうわ」
「君の話はどこまでが冗談で、どこまでが本気なんだか、さっぱりわからない」
「全部本気で本当よ」
「コアントローポリタンではコアントローポリタンを常に飲んでなけりゃいけなくて、薄気味の悪いピンク色のトランク・ケースを捨てると逮捕されてしまうというのもか?」
「そうよ。それだけじゃない。コアントローポリタンでは世界中のあらゆる言語が通じない時間帯が1日のうちに3回あるのよ。すごく不便。コアントローポリタンの通りには ── 」

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女は喋りつづけているが机の上にそっと受話器を置く。とても素面では聞いていられない。酒の用意だ。ここは誰がなんと言おうとスピリタスとコアントローにする。食器棚からグラスとペイルを出す。冷凍室から氷を出す。氷をペイルにぶち込む。

音楽をかけよう。なにがいい? リー・ワイリーの『Night in Manhattan』だ。小さな音で。ごく小さな音で。リー・ワイリーの『Night in Manhattan』を繰り返し聴けば、気分はいまよりずっとよくなるはずだ。

いままでだってそうだった。リー・ワイリーの『Night in Manhattan』のおかげで最終の銀座線に飛び込むのを思いとどまったことさえある。恋のいくつかが成就するのにも貢献してくれた。贅沢を言わなければ、そしてほんの少し工夫すれば ── 聴く音楽をなににするかという点についてちゃんと考えるというような些細なことで ── 人生のあらゆる局面は幾分かでも気分のいいものにできる。酔っぱらって訳のわからないたわごとを延々と喋りつづける女の長電話に付き合わされる類いの困難な局面さえもだ。そのちょっとした工夫をしないのは、生まれついての怠け者か救いようのない愚か者だ。

ブラインドを閉じる。照明はつけない。アンプリファイアーの真空管の光で充分だ。

McIntosh MC275 のスウィッチを入れる。電気という血液を流しこまれた4本の Western Electric KT-88 Vintage がゆっくりと焦らすように色づいていく。艶かしい。ロシア製の KT-88 のときは音がザラついて聴けたものではなかった。1週間前、WE社製の KT-88 にチューブ・ローリングした。耳を疑うほど音の艶と透明感に差がある。エージングが充分ではないのでやや御機嫌ななめだが、時間の経過とともに本来のパフォーマンスを聴かせてくれるはずだ。

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Play it. 1曲目は『Manhattan』。1950年、マンハッタン島ミッドタウン東52丁目フィフス・アヴェニューのリー・ワイリーが歌いはじめる。まだジャンキーもショッピングバッグ・レディもホームレスもいない頃のフィフス・アヴェニュー。数多くの矛盾と困難と困憊を孕みつつもアメリカにはまだ「ドリーム」が存在し、「希望」とやらが世界に対してなにがしかの力を有していた時代だ。

モノーラル録音。音質は悪い。ノイズも多い。ややハスキーで愁いを含んで仄かに甘い歌声。小粋で洒落たフレージング。独特のヴィブラートが心地いい。そして、なにより気品がある。いまどきの DIVA やら歌姫やらの有象無象には望むべくもない気品だ。ヘレン・メリルが「ニューヨークの溜息」なら、さしずめリー・ワイリーは「マンハッタンの吐息」だろう。

ジャケットを手に取る。ドレス・アップした男女のモノクロ写真。一緒に夜のマンハッタンを歩いているような気分になる。ジョージ・ガーシュインやアービング・バーリンのスタンダード・ナンバーもいい。サイ・ウォルターの上品で洗練されたピアノ。ボビー・ハケットの哀愁を帯びたコルネット。文句のつけようがない。

ビリー・ホリディは年に1度か2度でいい。エラ・フィッツジェラルドはときどきうまさが鼻につく。しかし、リー・ワイリーはエブリデイ・エブリタイム・オーケイだ。

ノックの音。3回。少し間を置いて2回。誰だ? スケジュール表を見る。依頼人だ。キャンセルはできない。急いで玄関に向かう。ドアを開ける。眼の下に濃い隈を貼りつけた男が立っている。女房に逃げられた男だ。男を招き入れる。仕事部屋に入る。ソファをすすめる。

「奥さんからその後連絡はありましたか?」
「はい」
「ほお。それは驚きだ」
「私も驚いています」
「このあとのご予定は?」
「特にありません。家に帰って、一杯飲んで、食事をして、寝るだけです」
「よかったら、いっしょに飲みませんか? お話しは飲みながらでも」
「いいですね」

男のグラスを用意し、私が飲んでいるのと同じものを作る。

「スピリタス & コアントローです」
「大好きです」
「本当に? 冗談でしょう?」
「いえ。家ではいつもこれです」

男はグラスを手に取り、揺らし、香りを嗅ぎ、口をつける。かなりの酒飲みだ。一連の動きでわかる。曲が『How Deep is The Ocean』にかわる。

「リー・ワイリーですね。大好きです。女房も大好きでした ── 」
「気が合いますね。すみません。いまちょっと電話中だったもので。済ませてしまいますから飲んでてください」

受話器を取る。

「あたしをほったらかしにしてどこに行ってたのよ。事件でも起こったのかって心配しちゃったじゃない」
「ちょいとした野暮用でね」
「ねえ。すごく恐い。街中がクリスタライズ・スワロフスキー・エレメントだらけなの。全身をローズ・アラバスターのスワロフスキーで飾り立てた女の人ばかりよ。みんな黒髪で、左目尻の下あたりに付けボクロしてるし。あちこちで輪になってバーレスクを踊ってる。どうなっちゃってるんだろう」
「これから君を血祭りに上げたあと、丸焼きにして喰っちまおうって魂胆さ」
「やめてよ!」
「やめないよ」

コアントローポリタンもピンク色のトランク・ケースもスワロフスキーも黒髪も付けボクロももうどうでもいい。それらは私の世界とはちがう世界のことであり、女の事情だ。

グラスに氷を放り込み、スピリタスとコアントローを同時に注ぐ。肩と顎の間に挟んだ受話器が落ちそうになる。大ぶりのグラスになみなみと注いだスピリタスとコアントローを半分ほどひと息で飲む。悪魔の雫が胃から血管を伝い、全身に広がっていく。

「あなたも飲んでるの?」
「いま飲みはじめた」
「ギムレット? マティーニ?」
「いいや。カクテルなんて手間のかかる面倒なものじゃない」
「わかった。マイヤーズ・ラムね」
「ちがう。スピリタス & コアントローだ。昼間から往来で酔いどれているコアントローポリタンの女を相手に長電話をするにはお似合いだろう」
「スピリタスはやめときなさい」
「世界中のスピリタスとコアントローを全部飲みつくしてやるさ」
「懲りないひと」
「そのうち、聖なる酔っぱらい帝国の皇帝になってみせるからたのしみに待ってるんだな。メイドか召使いか洗濯女でよければ雇ってやるよ」
「せめて秘書ぐらいにしてよ」
「お生憎様。秘書はすでに100万ドルの脚線美をもった仏文科出たての可愛らしいお嬢さんが面接待ちだ。眼の前のソファに座ってあくびをしてる。いま、ブラウスのボタンをひとつ外したところだ」

男にウィンクする。男は必死に笑いをこらえている。

「バカッ! あなたって最低の男ね!」

また電話が切れる。

「済みました」
「お忙しいようでしたら出直しますが」
「お気になさらずに。用件をさっさと片づけてしまいましょう。で、奥さんですが ── 」
「なんでも、現在コアントローポリタンという街にいるそうです。帰りたいけれども帰れないと。すごく恐ろしい目に遭っているようです」

自分のグラスと男のグラスにスピリタスを溢れるほど注ぐ。コアントローは必要ない。コアントローなどもうたくさんだ。スピリタスを2本も飲めばすべての災難と厄介事はきれいさっぱり消え失せるはずだ。1950年、マンハッタン東52丁目フィフス・アヴェニューのリー・ワイリーが囁くように歌っている 。ときに、静かに沈んでゆくことも必要だ。

Whether you are here or yonder
Whether you are false or true
Whether you remain or wander

Oh, how I'd cry,
If you got tired,
And said Good-bye

More than I'd show,
More than you'll ever know ──


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(To Be COINTREAUED)
 
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by enzo_morinari | 2014-03-28 04:28 | コアントローポリタンの女 | Trackback

「野獣死すべし!」と叫んで達する女

 
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達するときに「野獣死すべし!」と言うように調教した女がいた。自由が丘に広大な土地を持つアルビノの女だ。

ある日、めしを喰っている最中に「野獣死すべし!」と叫ぶのでたずねたら、達したと言う。

「なんでだ?」
「わかりません。急にイッてしまったのです」
「好き者の君のことだ。大方、淫想のたぐいをしていたんだろう。吉行淳之介が言っていたが直立不動のままレーゾンデートルをいっさい触らずに射精に至る男がいるんだから、女にだっておなじようなことはあるだろう」
「いいえ。純粋理性の二律背反について反芻しておりました」
「ああ。なるほど。それだ。それが原因だ。カントに通じてしまったのだよ、カントに」

アルビノ女は賢い女で、すぐに吾輩の言葉の含意を汲み取った。アルビノ女はその後の交接では「野獣死すべし!」という絶叫を二十遍ほども口にした。「野獣死すべし!」と叫んでいるときのアルビノ女の貌をよくみたら、レオナルド・ダ・ヴィンチの『Dama con l'ermellino』に描かれている白貂そっくりだった。

アルビノ女は去年、自宅の軒で首をくくって死んだ。軒にぶら下がった女の死体は白貂のように妖しく白く、長々と伸びきっていた。

女は首をくくり、みずから染めた赤い麻縄にぶら下がったときに絶頂に達したはずだが、やはり「野獣死すべし!」と叫んだだろうか? そして、女の魂が天国に達したときは。リップ・ヴァン・ウィンクル爺さんとXYZマーダーズでも飲みながら考えてみることにしよう。ついでに「純粋理性の二律背反」の背後に潜む獣の数字の意味についても。アルビノ女の彷徨える魂を鎮めるのにも悪くはない。
 
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by enzo_morinari | 2013-05-03 03:54 | コアントローポリタンの女 | Trackback

夢二女とヴァン・ドンゲン・ウーマン

 
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先々週の金曜日の夕方に和光の前で拾った宝くじが二等に当たって棚から牡丹餅で1000万円のお宝がふところに入ったので、自分になにか御褒美をあげようと思って伊東屋でファーバー・カステルのディレクターズ・ペン140番を100本と木箱入りのアルブレヒト・デューラー水彩鉛筆120色セットを買った。眼の下にうっすらと隈をこしらえたすごいような美人の店員を口説こうかどうか思案しているうちに腹の虫がぐうと鳴ったので口説くのはやめにした。腹がへっていれば口だって臭かろう。口が臭いと思われたのでは口説くどころではない。昼めしに煉瓦亭でポーク・カツレツを喰おうと決めて中央通りの日陰側を歩いていると、向こうから夢二式美人とヴァン・ドンゲン・ウーマンが連れだって歩いてくる。夢二式美人はお初だがヴァン・ドンゲン・ウーマンは馴染みというより腐れ縁だ。すれちがいざま、ヴァン・ドンゲン・ウーマンが私の右袖を引張って「黒船屋で一杯おごってよ」と言うので、「黒船屋はもう厭き厭きだ。煉瓦亭で昼めしを喰おうと思っていたところなんだが一緒に来るかい?」
「煉瓦亭ならいま行ってきたところよ。小娘と小僧とババアばかりでうるさいったらありゃしない。あんまりにもうるさいので我慢できなくなって、さっさと店を出ちまったわ。おかげでオムレツをひと口残しちまったわよ。口惜しいったらありゃしない。お代はおまえさまにつけておいたからお願いね」
「ありゃしないありゃしないって、おまえねえ、いっつも言ってきかせているだろう? この世界はありえないことでできあがっているんだって」
私が言うとヴァン・ドンゲン・ウーマンは白い喉元をみせてからからと笑った。「そいじゃあ、こうしようじゃあねえかよ。交詢社通りの一本裏手に『檻』って店ができたんで、そこへ行こうじゃねえか。開店以来、世界をひっくり返そうって了簡の野獣のようなやつらがうじゃうじゃ来てるそうだぜ」
「あら、たのしそうじゃないのさ。みんなで野獣になってやろうじゃないの。ウワオ。ワオワオ」とヴァン・ドンゲン・ウーマン。
「おまえ、それじゃあ笠置シヅ子じゃないかよ。それよりか、おまえさんがよくたって、そちらの夢二の絵から抜け出てきたようなお嬢さんはどうだろうね」
「あたくしならどんなような地獄でもごいっしょいたしますわよ」と夢二女。
「こりゃ、たまげたね」

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夢二式美人はなにを思ったのか、抱いていた黒猫を地べたに思いきり叩きつける。
「ちょいとちょいと。あんた、動物虐待で取っ捕まるぜ」
「いいえいいえ。これは猫みたようにみえますが、ほんとのところは虎屋の羊羹ですのよ。お気になさらずに。猫可愛がりしすぎたら虎が猫になってしまってつまらない思いをしていましたし、先だって虎屋から東京羊羹に鞍替えしましたもので、もう未練はございません」
まったく世の中には不思議不可解な女がいたものだ。女も不思議不可解なら地べたに叩きつけられた黒猫とみえた虎屋の羊羹もたいしたもので、苦しいようすもみせずに通りかかったクロネコヤマトのトラックにさっさと乗ってしまった。
「トキオの兄さん、はやくに行こうよう。『檻』へさあ。はやくしないと夢がさめちまうよう」とヴァン・ドンゲン・ウーマンがちぎれるのではないかというくらいに強い力で袖を引っ張る。『檻』へ向かう道すがら、夢二女は「ファム・ファタール。ファム・ファタール。ファム・ファタール」と地獄の底から聞こえてくるような声で呟きつづけた。そのときの私は、まさか夢二女が自分の「運命の女」になろうとは思いもしなかった。(つづける。)

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by enzo_morinari | 2012-09-18 04:15 | コアントローポリタンの女 | Trackback

ギャツビーの女

 
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週末、金曜の昼下がり。都会の喧騒が消え失せた宝石のような時間。オフィス・ビルの壁面のガラスが夏の初めの空と雲と光を映している。仕事は午前中にすべて片づけた。仕事もプライベートもすべては順調で、なにひとつ思いわずらうことはない。これから日曜の夜にベッドにもぐりこむまで、夏の始まりにふさわしいとびきりの時間をすごせる幸福で心は夏の雨上がりの空のように晴々としていた。

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オープン・テラスのテーブルの上に読みはじめたばかりのアーウィン・ショーの短編集を置き、ウェイターが注文を取りにやってくるのを待つ。通りに目をやると、クレープデシンやコットンリネンやピケやコードレーンやシアサッカーの夏服に身を包んだ女たちがややあごを突き出して歩いている。どの女たちの顔をみても週末の夜のお愉しみを目前に美しく健康的で、適度にエロティックで、いきいきとしている。「いい週末を」と思わず声をかけたくなる。

澄んだ空気。
にこ毛のような陽の光。
そして、夏服を着た女たち。

これから日が暮れるまでの数時間を自由に贅沢にすごそう。気持ちはさらに浮き立ってくる。
「クルヴァジェをクラッシュ・アイスに注いで、それをエヴィアン・ウォーターで割ったものを」
新米のウェイターが怪訝な表情を浮かべたので、私は伝票とボールペンを受け取り、注文を記した。新米ウェイター君に安堵とともに爽やかな笑顔がもどる。
薄手の大きな丸いグラスを琥珀色の液体が満たしている。グラスの淵に鼻を近づけ、芳醇馥郁たる葡萄の精の香りを愉しんでからひと息で半分ほど飲んだ。爽やかで、しかも豊かな味だ。決して上等とはいえないBOZEのコンパクト・スピーカーから、ジューン・クリスティの『サムシング・クール』が聴こえはじめる。夏の初めの空と雲をみる。流れゆくひとかけらの雲が、遠い昔に私を通りすぎていった女たちの顔にみえる。さらにクルヴァジェをもう1杯。動悸がたかまる。

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その昔、いつでもどこでも、『サムシング・クール』を口ずさんでいる女の子がいた。彼女は冷凍室の中でさえ、「なにか冷たいものをおねがい」と言いそうだった。彼女の名前は? 思い出せない。クルヴァジェをもう1杯。背筋を冷たい汗が一筋、流れ落ちる。

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『クール・ストラッティン』のジャケット写真みたいに魅惑的な脚線美をいつも誇らしげに見せびらかす女もいた。彼女が自信たっぷりに気取って街を歩くと、男たちは立ち止まり、慌てて振りかえり、そして、遠ざかる彼女の後姿と脚線美を溜息まじりに見送ったものだ。彼女の名前は? 思い出せない。クルヴァジェをもう1杯。軽い眩暈に夏の初めの街が揺れる。

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「マイルス・ディヴィスは嫌いだけど、『クールの誕生』は好き」と言いながらLPレコードを乱暴にターンテーブルにのせる女もいた。私は彼女の手荒さに辟易したものだ。彼女の名前は? 思い出せない。クルヴァジェをもう1杯。グラスを持つ右手がふるえだす。

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初めてみにいった『グレート・ギャツビー』で意気投合し、「あなたがギャツビーで、わたしがデイジー。そうすれば二人の復讐と幸福と享楽と放埓は完結するのよ」と言って、熱烈なキスをプレゼントしてくれた女もいた。彼女の名前は? 思い出せない。クルヴァジェをもう1杯。全身が泡立ちはじめた。
女たちの毒を含んだ矢が次々と飛んでくる。その毒矢は決して的を外すことはない。しかも、彼女たちのすべては遠い記憶の淡い桃色の雲の中に隠れていて姿をみせることはない。心の中にみるみる黒い雲が湧き上がってくる。寒気さえ感じる。初めの頃の浮き立つような気分はとうに消え失せていた。

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街が黄昏はじめた頃、やっと彼女は現れた。淡い水色のクレープデシンのドレスに身を包んで。彼女のあたたかくやわらかな笑顔だけがいまの私を彼女のいる世界に引き戻してくれる。そう思い、私は心の底から安心し、彼女に感謝した。
「あなたと初めてみにいった映画、おぼえてる?」と彼女は突然言った。
「ごめん。忘れちゃったよ。きみとは映画ばかりみてるから」
「『グレート・ギャツビー』よ」
「まさか ──」
「本当だってば。初めてのデートで、初めての映画ですもの。忘れたりするもんですか」
私は立ち上がり、もう何杯目なのかさえわからなくなってしまったクルヴァジェを毒杯でもあおるような気分で飲み干し、夏服を着た女たちが涼しげな表情を浮かべて行き交う街の中へ、ゆっくりと、本当にゆっくりと、一人で漕ぎ出していった。
 
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by enzo_morinari | 2012-07-18 14:00 | コアントローポリタンの女 | Trackback