カテゴリ:飛ぶ豚、飛ばない豚( 1 )

飛ばない豚はただの豚だ。捨てない人間はただの馬鹿だ。

 
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飛ぶ豚はいつかどこかに着陸するが、飛ばない豚はどこにも行けない。喰われるのを待つだけだ。


泡の時代が終わったとき、スッテンテンのスッカラカン、信用なし一文無し宿無しになった。そばにいたのは虹子だけだった。すり寄ってきていた三下奴どもは蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。

カネの切れ目が縁の切れ目とは人間社会における永遠の真理だ。しかし、吾輩は大笑いした。一生のうちにそうそう経験できないことを経験したんだ。ここは一丁、大笑いしてやれということだ。もちろん、残務整理は七面倒くさいことだらけだったし、高くついた授業料が口惜しくもあったが、そんなものはどうということのない過程のひとつにすぎない。時間の経過とともにいつか雲散霧消する些末な問題だ。

あれから23年の間、ずっとじっとナイフを研ぎつづけてきた。虹子とごく限られた者たち以外の誰の言葉も耳に入らなかった。入れなかった。無心? 冗談じゃない。昔も今も煩悩だらけだ。悟り? 寝言は寝てから言ってくれ。無心も悟りも糞食らえだ。吾輩は煩悩そのまま、煩悩をさらけだして生き、のたうちまわり、そして死ぬ。

「いまにこの白刃で世界もろともおまえたちをぶった切ってやる。細切れにしてやる」と思いつづけた。ルサンチマンの塊だった。初めのうちは錆ついていたナイフは日ごと鋭くなっていった。

抜けば玉散る氷の刃。いつの日からか、泡が弾けてから3年も経った頃か。不意にこの世界のすべてを真っぷたつにできるとわかった。それは確信だった。これっぽっちも揺らぎはなかった。これで駄目ならそんな鈍ら刀は折れちまえとも覚悟を決めた。そんな思いの日々だった。

いい年をぶっこいてよく腹がへった。腹は決まっていたがちょくちょく腹の虫が鳴った。鉄管ビールで凌いだ最長は9日だ。ポンコツボンクラヘッポコスカタンデクノボウどもが「オサレなランチ」やら「豪華絢爛ステキステキのディナー」やらを喰っている頃、吾輩はひたすら我が刃を研いでいた。そんな吾輩の姿を見た虹子が泣き出すこともしばしばだった。

「あのころ、あなたは本物の鬼でした」とはつい最近の虹子の言葉だ。父母に会うては父母を殺し、仏に会うては仏も殺す。そんな日々だった。

「コペルニクス的転回」も「コペルニクス的転回の転回」も「絶対矛盾的自己同一」も「身心脱落本来面目現前」も吾輩の係ではない。それってうめえのか? ダシはきいているか? 歯ごたえはどうなんだ? そんなリアリティのないものは「くそまじめな精神」の持ち主様にでもくれてやれ。さもなきゃ、犬畜生にでも喰わすか糞掻きべら一閃、宇宙の果てまでかっ飛ばしちまえ。

おのれを捨てろだあ? おのれを虚しゅうしろだと? 何度でも言う。寝言は寝て言え。のたうちまわりながらほかの何者にもなりかわりえない吾輩自身のリアルをグリップすること。それが吾輩にとって意味を持つ。

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物心ついたときからどんどんじゃかすか色んなものを捨ててきた。用がなけりゃ捨てる。当然だ。縁だって捨てた。手加減なし容赦なしで。女房だって娘だって息子だって女だってともだちだって本だってレコードだって捨てまくってきた。大好きな犬さえ捨てたことがある。ヨチヨチ歩きの仔犬を。

赤鬼でも青鬼でもない。捨鬼だ。おかげでいつだって引っ越しは楽チンのチンだった。そうやって数知れぬ別れを繰り返してきた。経験と言えば言えなくもないが、勧めない。ろくなことがないからだ。心だって痛む。鬼の目にも涙だ。

よく捨てることが拾うことに通じるだの、別れて道が開けるだのという生臭坊主が言いそうなことを経験の「け」の字も知らぬような甘ちゃんがぶっこくのを見聞きするが、そのたびに臍が独創茶を沸かす。三枝点が沸かしてくれた茶ならうまくもあろうが、そうではない。甘っちょろいのはピントだけにしておけてんだ。

ここ20数年、身悶え、身も凍るような存在感を持った人物を見かけないのは簡単にお手軽に捨てることが大手を振ってまかり通っているからだろう。まったくもって腹立たしいかぎりだ。

そう簡単に捨てられるなら、別れられるなら、切れるなら、それは元々必要のないものだったんだろう。必要のないものをあれもこれもとぶら下げて得意になっていたんじゃないのか? そういうのを骨折り損のくたびれ儲けてんだ。明瞭簡潔に言うなら愚か者、馬鹿者ということだ。おぼえとけ!

捨てるとき、切るとき、別れるとき。胸のど真ん中あたり、ずっと奥のほうがずんと疼く。痛む。それでいい。なんの不思議もない。別れ別れになるんだからな。以後は一切の関わりがなく、まったく別の道を歩くんだからな。死のうが生きようが、焼いて喰われようが煮て喰われようが知ったこっちゃない。捨てる/切る/別れるとはそういうことだ。

未練? ないね。一切ない。未練のことなら見沢知廉が詳しかったが死んじまったな。しょうがないから鱈と豆腐と長葱と茸の鍋でも喰ってタラタラするがいいや。

「吾輩は世紀末の山頭火だ」と嘯く日々。虹子だけが吾輩の後ろ姿を、時雨ゆく背中を見守りつづけてくれた。虹子が天使、菩薩様だと気づいたのはここ最近だ。

虹子には毎朝毎晩手を合わせている。吾輩の広く深く豊かな心の中で。今度の休みは肩でも揉んでやろう。虹子だけはなにがあっても捨てない。捨てられようはずがない。捨てられるとすれば吾輩のほうだ。なにしろ、仏の顔に泥を塗るどころか刃を向けつづけてきたんだから。三度どころか百遍も二百遍も。これで駄目なら、あとは命を捨てるばかりだ。

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マルコとジーナのテーマ from 『紅の豚』
 
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by enzo_morinari | 2013-04-29 02:16 | 飛ぶ豚、飛ばない豚 | Trackback