カテゴリ:ディラックの海の青いほとりで( 2 )

時間とベケットとラマヌジャンとメタモルフォーシス

 
 
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ガジンと並んで大きなラピスラズリの石に腰かけ、きわめて加算的付加的なインド音楽のリズムでサミュエル・ベケットを待っているあいだ、時間は普段よりずっと間延びし、のっぺりとした貌をみせつづけた。

私とガジンの前をラヴィ・シャンカール色のタクシーがひっきりになしに通りすぎた。ガジンは私が制するのも聞かずにラヴィ・シャンカール色のタクシーのナンバーからラマヌジャン・タクシー数1729を91個みつけた。

「悪魔が来ちゃうじゃないか」と私はガジンに言った。
「あんたが悪魔だろう?」
「なんだ。知ってたのか」
「そりゃね。知らなきゃ、伊達や酔狂で酷寒のミル・プラトーの頂上で2年もデジタルべジタリアンとしてデジタル・デバイド・バイトの日々を引き受けたりしない」

そのうち、「間の山」のほうから『浜辺のアインシュタイン』と『屋根の上の1000台の飛行機』と『水素のジュークボックス』と『めぐりあう時間たち』と『メタモルフォーシス』が聴こえてきた。

「もう一日待とう。明日ベケットがこなければ首を吊ろう」

私が言ってもガジンはもはや私の言葉を理解できない怪物に変身していた。フィリップ・グラスの『メタモルフォーシス』の作品5が終わると同時にガジンは蒼穹に向かって急上昇し、小さな点になり、消えてしまった。「明日ベケットがこなければ首を吊ろう」と思った。

Philip Glass: Metamorphosis
 
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by enzo_morinari | 2013-05-20 19:02 | ディラックの海の青いほとりで | Trackback

マドレーヌ現象型ハッブル宇宙望遠鏡がもたらした「青の時代」

 
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今夜、ディラックの海の青いほとりで

ハッブル宇宙望遠鏡がとらえた宇宙の生々しい姿はわれわれの「宇宙観」「世界認識」「知のありよう」を劇的に根本的に変えた。それまで闇の中に薄ぼんやりとした姿で浮かんでいた銀河、宇宙はハッブル宇宙望遠鏡の登場によって、ある日突然毛穴のひとつひとつ、皮膚の肌理までをありありとわれわれの前に提示されることとなった。

オリオン座にある暗黒星雲の馬頭星雲が「馬頭」などという大雑把な表現ではなく、「ディープインパクトのゴール板前の上げ下げで勝利した頭の差星雲」あるいは「ゴドルフィンアラビアンが猫に挨拶をしたときの頭星雲」と個別具体的な名を与えられる日が来たのだ。天秤座ではなく「タニタ食堂の厨房の秤座」、乙女座ではなく「原節子座」、牡羊座ではなく「村上春樹の羊座」というふうに。

いまや宇宙は絵物語、夢物語、神話、伝説の対象ではなく、リアリズムによって語られるべき対象となった。そして、いよいよ、星々、星座によって語られてきた「星々と神々の物語」はリアルな「宇宙誌」「宇宙博物誌」「宇宙年代記」「宇宙白書」「宇宙決算報告書」として精緻に記述される時代がやってくる。明晰な数値、観測データとともに。先端の科学技術によってえられた詳細精緻な観測データ、素材は山のようにある。これに手をつけない手はない。宇宙は宝の山、究極の御馳走だらけだなのだ。「宇宙ブロガー」誕生の日も近かろう。

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ビッグバンもベビーユニバースもパラレル・ユニバースもダークマターもダークエネルギーも「重力場理論」も「膨張宇宙モデル」も「宇宙背景放射」も「宇宙ひも理論」も「サイクリック宇宙論」も宇宙のほんの一部を記述しているにすぎなくなるかもしれない。

ディラックの海は宇宙という大海のほんの小さな渚にすぎなくなるかもしれない。宇宙はさらに巨大で深い闇を広げ、謎は深まるかもしれない。アインシュタインが取り出してみせたE=MC2の方程式すらこども騙しにすぎなくなるかもしれない。

われわれは「宇宙」「ユニバース」についてもっと語らなければならない。ネット上に山ほどあるハッブル宇宙望遠鏡によってとらえられた宇宙、銀河、星団、星々の画像をみて。生々しい宇宙の姿を目にしたわれわれの心をふるわすものこそがハッブル・バイブレーションだ。

ハッブル宇宙望遠鏡がわれわれに見せるのはリアリティのある『スペース・オデッセイ』である。宇宙はこれから先、近い将来、さらに精度を増し、リアリティを加えてわれわれの前にその姿を見せる。そのとき、人間は宇宙のリアルな物語をいかなる文体で語るのか。

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さて、ゆうべのことだが、マドレーヌ現象型ハッブル宇宙望遠鏡でピカソの「BLUE PERIOD」のいくつかを観察計測解釈分析した。鑑賞? ふざけるな。ピカソの「BLUE PERIOD」は鑑賞などという甘っちょろい態度をゆるさない。そんなものはさびれた観光地の廃業寸前の土産物屋で埃をかぶっている絵葉書を愚にもつかぬ教養主義で塗り固めて、いかにも価値があるようにみせかけるポンコツボンクラヘッポコスカタンデクノボウどもの取る態度だ。吾輩の係ではない。

吾輩は「BLUE PERIOD」を食べるのだ。喰らうのだ。ときとして腹をこわすが、それでもおそれずひるまずたゆむことなくガブガブムシャムシャと貪り喰うのだ。ピカソも大よろこびだろう。いつの日かピカソが残した15万にも及ぶ大御馳走のすべてを平らげてやる。

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ゼニカネに困り果てていたパブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シブリアーノ・センティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソは青い絵具しか買えなかった。その「危機の時代」が史上最高のクリエイターを生んだ。「青の時代」は「危機の時代」とも言い換えうるということだ。

重要なのはクライシス・モーメント、クリティカル・モーメント、クリティカル・ポイント、危機、臨界である。「危機の時代」「臨界」を経験していない者は死ぬまでポンコツボンクラヘッポコスカタンデクノボウのままである。「オサレなランチ」などとほざいているような者に世界は開かれない。扉を閉ざす。

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ピカソの「BLUE PERIOD」を代表する『自画像』『年老いたギター弾き』『母と子の肖像』『年老いた盲人と少年』『セレステーィナ』などを見ているとどうしようもなく泣けてくることがある。無論、感傷の涙などではない。三日も飲まず喰わずで腹がへってはいても文無しなのでひと切れのパンすら買えないときに流れる類いの涙だ。

さんざっぱら泣いてしまったあとはすこぶる気持ちがいい。まさにカタルシスだ。このような気分を味わわせてくれるものはそうそうありはしない。

そうだ。青だ。ようやくにして尻の青みのとれた吾輩に必要なのは土手っ腹にこたえる本物の青なのだ。貧者の青と強い青と深い青と豊かな青と鮮烈な青と清冽な青と哀しみの青と愁いの青とラピスラズリとコバルトとターコイズとアクアマリンとバイカル湖の湖面とカリフォルニアの青い空、そして、チェレンコフ・ブルーだ。

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by enzo_morinari | 2013-04-08 06:13 | ディラックの海の青いほとりで | Trackback