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虹子のトランク/燐の火のような青く美しい光になって#1

 
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 虹子は隠しごとをしない。うそをつかない。秘密もない。しかし、例外がひとつだけある。「虹子のトランク」だ。虹子は「虹子のトランク」をだれにもさわらせない。さわらせないだけではなくて、見せることもない。吾輩は一度だけ「虹子のトランク」を見たことがある。虹子を尾行し、「虹子のトランク」の隠し場所を探りあてたのだ。

 東京港。品川の海の近くの倉庫街コバルト地区。虹子はコバルト・ブルーだらけの街のひと際コバルト・ブルーな巨大なビルヂングに入っていった。吾輩がいままでに見たこともないような軽快なステップで。吾輩は心臓が口から飛び出しそうになるのを必死でこらえた。なにかある。これは絶対になにかある。逢引き? まさか。コバルト・ブルーな場所で逢引きするなど聞いたこともない。被曝の危険を冒してまで快楽を得ようとする者などいない。秘密の会議? それもありえない。「会議」の類いがいやでハイパー遺伝子工学研究者として将来を嘱望されながら虹子は東大の医科学研究所を辞めたんだから。妄想は次から次へと膨らんでくるが、吾輩はそれらのひとつひとつを叩きつぶした。叩きつぶすたびにコガネムシを踏んづけたような悲鳴が聞こえた。一番ひどい悲鳴を上げたのはエイハブ船長だ。今頃はモービー・ディックに喰いちぎられてバラバラになった死体は冷たい海の底だろう。白いマッコウクジラの大群がそのまわりでスペルマ・ダンスを踊っているのがみえる。

 通りを挟んで向いの陰湿きわまりもない群青色の建物の陰に身を隠して虹子が出てくるのを待った。虹子は正確に42分後に出てきた。ビルヂングに入ったときよりもいくぶんか顔が輝いているように見えた。足取りはさらに軽快になっている。
 吾輩は電信柱の陰から通りを遠ざかる虹子の背中が見えなくなるまで見送り、薄闇の中に虹子が消えるのを確認してからコバルト・ブルーのビルヂングに入った。守衛の爺さんは「内閣情報調査室特別調査官」の身分証をみせ、名刺を一枚くれてやるとすぐに虹子のトランク・ルームに案内してくれた。ある種の権威を振りかざせば、この世界にはプライバシーも個人情報も存在しないも同然だ。「ごゆっくりどうぞ。ぐへへのへ」と言って守衛の爺さんは守衛室に戻って行った。肉付きのいい背中とやや丸めた姿勢と歩き方を見て、爺さんは元刑事であることは容易にわかった。

 エイドリアンニューウェイ・ブルーの扉を押すと錆粉がぱらぱらと落ちてきた。「虹子のトランク」はトランク・ルームの真ん中にあった。「虹子のトランク」が放つ輝きのせいで照明をつける必要はなかった。吾輩は生唾を飲み込んだ。江ノ島のさざえ売りの涙のような味がした。吾輩はしばらく「虹子のトランク」の様子を観察した。コバルト・ブルーの輝きを放っているほかは「虹子のトランク」はいたって紳士的でジェントリーでホワイト・ナイトでエボナイトだった。吾輩はゆっくりと「虹子のトランク」に近づき、つま先でつんつんしてやった。吾輩がつんつんするたびに「虹子のトランク」は「ワンツン、ワンツン」とうれしそうな声をあげた。
 トランクをあけた。「虹子のトランク」の中からはあちこち傷ついたり凹んだりカビが生えたり色褪せてとても年老いてくたびれ果てた「賢治のトランク」が出てきた。そうだ。正真正銘、宮沢賢治のトランクだ。宮沢賢治の法定代理人である吾輩が言うのだからまちがいはない。
「賢治のトランク」は初めのうちじっと吾輩をみつめるだけでぴくりとも動かなかった。1時間ほどのあいだにまばたきを3度しただけだ。「賢治のトランク」が最初に発した言葉は「腹へった。億年兆年億兆年なんにも食べてない。凡愚でスモーク・オン・ザ・ウォーター。キシキシキシ」だ。
 
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by enzo_morinari | 2013-03-29 14:18 | 虹子のトランク | Trackback