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一千億の屍を越えて/東京は燃えているか?

 
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Is Tokyo Burning? 東京は燃えているか?

「東京は燃えているか?」と打電するのはだれか? 北の国の王子様、太っちょの将軍様か? あるいはその背後にいる傀儡師、竹のカーテンの奥から孫子の兵法と孔子様の『論語』と赤いロング・マーチで理論武装した権謀術数で狡猾傲岸不遜に操る飛行機と椅子以外はなんでも貪り食う飲茶兄弟、満漢全席ブラザーズか?

遅かれ早かれ東京を中心とする関東一円が火の海になる日は必ずやってくる。大阪も同時に。札幌も仙台も金沢も名古屋も神戸も広島も福岡も。日本の各地で。

「世界の終り」と破滅へのカウントダウンはすでに序章も第二幕も終わり、大団円を待つのみだ。

日本民族の課題は「いかに死ぬか」と「いかに生き延びるか」の2点に集約しうる。「いかに死ぬか」にはいくぶんかの選択肢が残されてはいるが、「いかに生き延びるか」については選択肢は限定される。世界のどこにも日本語が通じる場所はないからだ。

言葉を失う民族。流離う民。望徳の鐘を鳴らす者はもはやいない。望徳の鐘はいまやどこにもない。

世界はすでにして定員オーバーだ。1億2000万の民を受け入れられる国も地域も場所もない。食料と水の行き先はとっくに決まっている。出口なし。入口なし。グレート・デッドロック、マーベラス・デッドエンド。

熔解する制度。紙屑となる通貨。価値のなくなる土地。根こそぎにされる社会基盤。解体される国家。溶けてなくなる民族。新しい流離譚のはじまり。解答なき流離譚。オデュッセイアもアガメムノーンもヤマトタケルもアーサー王も登場しない物語。

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国際政治は冷厳冷徹にして冷酷だ。情け容赦なく、手加減もない。日米同盟? 寝言は寝てから言ってくれ。米国がいつまでも日本の同盟国、うしろ楯であるなどと思ってはならない。イランが好例だ。

パーレビ国王時代を含めてあれほど援助し、肩入れしていたものが、いまや仇敵中の仇敵、「テロ輸出国家」指定である。ホメイニを中心とした「緑色革命」など容易に予想はついたにもかかわらず黙認した背景には「石油」をめぐる混みいった思惑があったのだとわかればすべては合点がいくし、米国の「やり口」も理解できようというものだ。

米国がおそれるのはその地域で現象化する「ドミノ・セオリー」だけであり、それが払拭されればなんでもありのなんでもこいということだ。

米国は中国あるいはロシアとの「裏取引き」の内容いかんによっては瞬時に手のひらを返す。力のある者は力のある者と結び、強者は強者と手を握る。それが互いに傷つかないための、あるいは傷を最小限度に抑えるための手っ取り早く低コストで、もっとも有効な方法だからだ。それが国際政治の現実である。

曖昧模糊とした「頬笑み」だけでは交渉のテーブルにつくことさえできないし、百万言の感謝の言葉をならべ立てたところで誰の腹もふくれはしない。

「ありがとう」「Thank you」「Gracias」「Merci beaucoup」「Grazie」「Obrigado」「Danke Schoen」「スパシーバ」「謝謝」が魔法の言葉だというのなら世界は魔法使いだらけということだ。決してそうではあるまい。共依存と親和欲求と認知欲求まみれの甘っちょろいたわ言は年端もいかぬこどもを相手に宣うか、退屈とマンネリと裏切りに満ちた閨室の寝物語ででもやるがいい。百害あって一利なしだ。

交渉に必要なのは頬笑みと棍棒である。やわらかな頬笑みをたたえて右手で握手しながらも左手にはしっかりと棍棒を隠し持っていて初めて交渉事を有利に進めることができる。地盤と看板と鞄だけで議員バッジを手に入れた有象無象の政治屋どもや温室育ちの日本の木っ端役人ふぜいにそのような芸当ができようはずもない。かれらには微塵も期待はできない。

数少ない棍棒であり切札であり、頼みの綱だった「経済」は虫の息となり、「技術力」は風前の灯となった。ソニーと松下の屋台骨が揺らぐ時代だ。泡の時代にソニーにはたんまり儲けさせていただいたが命脈尽きるのは時間の問題だろう。低賃金とコストカットと内部留保で生きながらえようとしたところで、そんなものは所詮、その場しのぎのまやかしにすぎない。

上場企業? ブラック企業といったいどこがちがうというんだ? そのような企業、経営者だらけの国がたどり着く先は火を見るよりもあきらかだ。

さらに、国連分担金を年間に3億ドルも負担し、米国に次いで第二位の分担金額を支払いながら、いまだに安全保障理事会の常任理事国になれないという現実からは「ヤルタ・ポツダム体制」の強固さと闇を垣間みることができる。

有り体に言ってしまうならば、現在の世界は「パックス・アメリカーナ」と「パックス・シノワ」と「パックス・エウロペ」のために動いているのだ。大は為替相場から小はくしゃみひとつ、肉の切り方、パスタの茹で加減、箸の上げ下ろしにいたるまで「パックス・アメリカーナ」と「パックス・シノワ」と「パックス・エウロペ」のためでなければならない世界ということだ。

吸う空気はホットドッグとハンバーガーと支那竹とバターとチーズとオリーブ・オイルとワインのにおいに満ちている。いかにもうまそうなにおいだが、巧妙狡猾に致死量の何百万倍もの「毒」が仕込まれている。

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「日本の分割統治」をめぐる第二の「ヤルタ会談」は秘密裡のうちにすでに行われているかもしれない。日本に「市場価値」「使い道」がなくなれば米国はすぐに日本を見限り、見捨てる。価値のないものに投資し、手間ひまをかけるお人好しはいない。

相手はゴリゴリの功利主義、研ぎすまされたプラグマティズム、ラブレスのカスタムメイド・ナイフ並みに切れ味鋭いケインズ流近代経済学主流派が肩で風を切っている国だ。「損して得とれ」などという悠長なことは一切通じない。「根回し」など瞬時に芥子粒のように消し飛んでしまう。

米国に都合が悪ければ前半戦が始まったばかりでも「GAME SET!」の宣言がかかり、あるいは逆にゲームの終了時間がとっくに過ぎていても無限のインジュリー・タイムが加えられる。米国が勝つまでゲームは終わらないのだ。TPPで日本がコテンパンにされる様がありありと目に浮かぶ。木っ端役人の中からは何人もの自殺者が出るにちがいあるまい。

信頼関係? しがらみ? 歴史? 笑わせるな。極楽とんぼもたいがいにしておけ。スペイン語、フランス語、ポルトガル語、イタリア語、ドイツ語、ロシア語、中国語は無論のこと、英語すらもろくにしゃべれず、聴きとれぬ者ばかりの国の最高権力者をいったいだれが信頼するんだ? どうやって心を通わせるというんだ?

安倍晋三の外国人記者クラブでのスピーチを聴いたか? 野田佳彦の英語を聴いたか? 自他ともに認める「英語通」とやらの宮澤喜一の英語はどうだった? よど号をハイジャックしたたわけ者やダッカ事件の不逞の輩の和製英語のほうがまだましだったのではないか? 戦後日本で唯一マッカーサーに楯突いた男、「てめえには手がねえのか!」「日曜はビジターお断りだ!」の白洲次郎はもはやいないのだ。

日本語以外の外国語を理解しない者が生きることができる国は日本以外にはない。その日本がなくなる。「その日」はすでにタイムテーブルの上だ。そのテーブルではいったいどんな晩餐が待ち受けているのか? 少なくとも日ごと夜ごとの「オサレなランチ」やら「豪勢豪華なディナー」でないことだけは確かだ。

日本消滅のタイムテーブルに並ぶのは数値化された欲望だけである。そのテーブルの上には血まみれの札束を数える血まみれの指先を洗うための純金製のフィンガー・ボウルはあっても、津波大洪水に飲みこまれ、泥にまみれた少女の亡骸にそそぐ一滴の水すら用意されてはいない。

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中国の侵略? もちろんそれもある。尖閣諸島をめぐって起きている種々はその序章だ。しかし、それだけではない。仮想宗主国XYZは徹底的に日本を骨抜きにしてかかる。だが、だ。「その日、そのとき」に日本人は別の意味の「平穏」を手に入れる。「なにも考えなくていい」という平穏を。

もういい。もう手仕舞いの頃合いだ。一旦、すべてを終わらせよう。そのほうがずっといい。終わらせて、一から始めればいい。そして、木っ端役人どもが律令制国家誕生以来、営々として姑息強欲に築きあげてきた「官僚ファシズム」を一掃し、地盤と看板と鞄のみで議員バッジを手に入れた政治屋どもから本来の「政治」を取りもどすのだ。

エーリッヒ・フロムの至言を思い起こせ。

自由からの逃走

人間は束縛されているときはなにも考えなくてすむ。みずからの意思で決断し、行動する必要がないから目先の日々は楽だ。唯々諾々とお上の「お達し」を受け入れ、日々をやりすごすだけで最低限度の食いものと寝床は確保できる。

平穏で無目的で退屈な日々。パラダイムなきパラダイス・パラレルデイズの始まりはもうすぐだ。能天気お気楽極楽にパラパラでも踊り狂いながら日々をやりすごし、あるいは、「自己実現」「(自分のためだけの)幸せ探し」「自分探し」という名のグロテスクなエゴイズムをさらし、「その日、そのとき」を待つか? さて、どうする? どうするんだ?

決めるのはほかのだれでもない。あなた自身だ。


望徳の鐘を鳴らす者よ、いでよ。失われし望徳の鐘を再び築き、打ち鳴らせ。

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 Is Paris Burning? - Takashi Kako
 Esperanza - Didier Merah
 

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by enzo_morinari | 2017-08-31 01:30 | 一千億の屍を越えて | Trackback

一千億の屍を越えて/君が消えた日

 
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 君が消えてから2年が経つ。君はいまだにみつからない。でも、僕はまだ君を探してる。探しつづけている。「あきらめろ」と誰もが言う。あきらめられるわけがないだろうが! おまえたちは僕たちの日々のひとかけらだってわかってやしないんだ!

 ときどき、君の声が聴こえる。楽しそうなときもあれば悲しそうなときもあれば苦しそうなときもある。お腹がへっているんじゃないかってときさえある。でも、本当はわかってる。君が2年前に死んでいるんだってことを。それでも、たとえ君が死んでいたとしても、僕には君の声が聴こえる。

 君が消えた日、僕は東京で仕事をしていた。君は北国の春まだ浅い海の景色を描くのだと言ってキャンバスとイーゼルと絵筆と絵具を抱えて上野駅の14番線ホームから東北新幹線に乗った。E2系のピンク色のラインが入った車輌が動きはじめたとき、窓越しに映る君の笑顔はなぜか悲しそうだった。理由はわからないが、とにかく僕には君がとても悲しそうにみえた。見送る僕に向かって君はなにか言おうとして口を動かしかけたけど、結局、君がなにを言おうとしたのかはわからずじまいだった。新幹線が動き出し、君はみるみる小さくなり、そして消えた。

 君はいまどこでなにをしているんだ? なにを感じ、なにを考えているんだ? いまでも絵を描いているのか? あのとき、新幹線の窓越しに君は僕になにを言いたかったんだ? 僕にできることはなにかないのか?

 君がいなくなった日 - 加古隆
 
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by enzo_morinari | 2013-03-21 12:13 | 一千億の屍を越えて | Trackback

一千億の屍を越えて/パリは燃えているか?

 
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ナパームは線香花火となり、メガデスすら子供騙しとなった時代を我々は生きている。


1940年5月9日、オランダ、ベルギーに侵攻した”砂漠の狐”エルヴィン・ロンメル率いるドイツ軍機甲師団はフランス北部フランドル地方のアンデルヌ大森林地帯を抜け、いっきにパリを目指した。

まんまと出し抜かれたかたちのフランスの守備の要、マジノ線守備隊は直接ドイツ軍と戦う部隊に増派できなかったばかりか、ドイツ軍部隊の補給線を断つことすらもかなわなかった。

ドイツは機甲師団機械化部隊とユンカース急降下爆撃機による「電撃作戦」でフランス軍の抵抗を難なく粉砕。6月14日、ついにパリに入城する。

フランス侵攻に際し、パリを焼き払うよう事前に命令していたヒトラーは、パリに迫る軍司令官に直接連絡を取り、「パリは燃えているか?」とたずねた。このとき、アドルフ・ヒトラーの脳裡にはいったいどのような「音」が鳴り響いていたのか。あるいは、彼が夢みていたといわれる「千年王国」とはいかなるものだったのか。

「アドルフ・ヒトラー的なるもの」は、実はわれわれの中にもひっそり息づいているのではないのか。あるいは、われわれは「アドルフ・ヒトラー的なるもの」の再登場を我知らぬうちに望んではいないか。

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加古隆『Is Paris Burning?』はNHKスペシャル『映像の世紀』のテーマ曲だ。加古隆はクラシック、ジャズ、現代音楽、民族音楽、フォークロアなどの要素を融合させた独自の作曲形式を確立した。オリジナル作品の演奏を中心に活動する現代屈指の音楽家である。即興性を重視した演奏スタイルによって、自然、哲学、文学、思想、美術、建築、舞踊など異分野から多くの着想をえた作品は、その演奏スタイルとともに加古の「思想」と「哲学」を表現する。加古の音楽スタイルは自由そのものだ。表現の幅は自由闊達、広大奔放で個性に富む。加古はかつて言ったものだ。

「活動拠点は地球だ」

この言葉どおり、パフォーマンスの舞台は全世界におよぶ。日本よりも外国における評価がすこぶる高い。地球をまたにかけて、日々、大陸横断、太平洋ひとまたぎのスーパー・カコ。脱帽だ。こちらが脱帽してもスーパー・カコはけっして帽子を脱がない。スーパー・カコは「例の帽子」とワンセットで加古隆だからだ。是非を問うてはならない。「そうだからそうなのだ」という世界もまた存在するのである。

余計な装飾音をいっさい省き、一気に核心に迫るシンプルな主旋律。壮大な叙事詩のごとき展開。細やかさと荘厳さと透明感を両立させた音色。徹頭徹尾リアリズムに徹し、叙情、感傷を極力排するストイシズム。それでもなお、否応もなく立ちのぼる馨しく高貴な哀愁。

ピアノはオーストリアの銘品、ベーゼンドルファーを長く愛用し、荘厳、荘重、重厚な響きにこだわる。「スタインウェイは軽妙、繊細すぎて、私の音楽スタイルにあわない。激情、荒々しさ、野生に耐え、表現しうるのはベーゼンドルファー以外にない」と発言したことが、一部の好事家のあいだで物議を醸した。「チェコフィルの松脂の飛び散る音」がどうたらこうたらと蘊蓄を垂れるくらいが関の山のへなちょこどもはおとなしくタンノイのキャビネットでも磨いていろと一喝したいところだが、ここは物静かに居ずまいをただして『Is Paris Burning?』を聴いておくことにする。

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加古は作品世界の奥深くまで入り込むためにすべて暗譜で演奏する。加古隆の演奏姿勢に「禅」の精神性をみるという識者も多く、海外、特にヨーロッパにおいて加古がきわめて高い評価を受ける理由のひとつでもあるように思われる。

加古隆の音楽、思想は「事実」の集積によるものである。徹底したリアリズムこそが揺るぎなきロマン、ユマニテを表現しうるのだということを加古の音楽は示している。

事実。重要なのは事実だ。なまくらな「人道主義」、中途半端な「現実主義」、薄っぺらな善意と甘っちょろい「理想主義」、寄辺なきあさはかなニヒリズム乃至はアナキズム。それらは「事実」の前に沈黙する。

加古隆の『Is Paris Burning?』は事実の音楽である。音楽というよりももはや思想あるいは哲学である。上滑りした理想論や人道主義や現実主義やあさはかなニヒリズムでスカしたりヨタったりするまえに、まず、じっと加古の『Is Paris Burning?』に耳を傾けよ。心の耳をすまし、『Is Paris Burning?』の弦とピアノのひとつひとつの響き、旋律、音色を聴け。そこには「事実」がある。「事実」を積みあげることによってしか表現しえぬ「真実」がある。

われわれにもし、未来とやらがまだ肯定的なものとして残されているのなら、この事実、この真実を拠り所として歩みを進めるくらいの余地はまだいくぶんか残されている。道は細く長く曲がりくねり荒れ果てているが歩けぬことはない。「七つのラッパ」はまだすべては吹き鳴らされていない。


ヒマラヤほどの消しゴムひとつ、ミサイルほどのペンを片手に 、「心にしみ入る木の響き」のベーゼンドルファーとともに、きょうもスーパー・カコは地球を飛びまわる。

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Is Paris Burning?/パリは燃えているか? - 加古隆


準備せよ。
Is Tokyo Burning? 「東京は燃えているか?」と打電する者は「そのとき」がくるのをじっと息をひそめて待っている。

 
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by enzo_morinari | 2013-03-19 01:45 | 一千億の屍を越えて | Trackback