カテゴリ:昭和の寓話( 3 )

ある新米非常勤講師と青白く輝く新月とコルトレーン

 
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 ジョン・コルトレーンの『Crescent』をずっと聴いている。青白い炎がゆらめくような静かな熱情。変貌しつづけるコルトレーンが唯一立ち止まったときの記録。1曲目の『Crescent』につづいて『Wise One』がかかる。賢者。賢き者。マッコイ・タイナーの静謐なピアノのあとにさらに静謐なコルトレーンのテナー・サックスのソロ。遠い昔のいくつかのシーンが静かによみがえってくる。

 高校2年の秋。文化祭をめぐる緊急臨時生徒総会でのことだ。吾輩は文化祭のテーマをめぐって、学校側、生徒会と対立し、生徒会規則に則って臨時生徒総会の招集を求めた。
 高校解体! ○○高を日本のカルチェラタンに! それが吾輩と吾輩の悪童仲間、一味が掲げた文化祭のテーマだった。学園紛争が尻すぼみの格好で終熄し、浅間山荘事件も忘れ去られようとしていた時代。このようなテーマが学校側に認められようはずもないことはわかっていた。わかってはいたが、ふやけた空気、ぬるま湯のような雰囲気をぶち壊したいという思いが強かった。わずか数日でもいい、受験にかかわることのすべてを忘れて学校全体をなんでもありの解放区にしたかった。当然、目論見はことごとく粉砕され、裏切り者、脱落者、傍観者を生んだ。そして、幾人かの仲間が去っていった。吾輩は最後まで残った悪童仲間とともに校舎の屋上に立て籠ることを企て、最初に新米非常勤講師に相談した。新米非常勤講師は苦笑しながらも嬉しそうだった。

 吾輩が通っていた高校は教員も生徒も「偏差値」と「東大合格者数」しか頭にないつまらぬ輩ばかりだったが、新米非常勤講師はちがった。志があった。「読むべき本」「観るべき映画」「聴くべき音楽」、そして「考えるべき事」のリストが新学期の最初の授業の冒頭に渡されるのみで、教科書の類いはいっさい使わず、黒板に板書もしなかった。毎回、あるテーマをめぐって、その意味、成り立ち、背景、問題点などについて自説を展開し、生徒とディベートすることが新米非常勤講師の授業スタイルだった。教科書を持参しない吾輩には都合がよかったばかりでなく、すこぶる楽しい時間であった。中間、期末の試験は白紙の藁半紙が配られ、自由課題で書きたいことを書くというものだった。返された答案用紙には赤ペンで寸鉄釘を刺す講評が書き込まれていた。新米非常勤講師のそのようなやり方は姑息臆病小心な職業教員どもの格好の標的にされたが、新米非常勤講師はまったく意に介さぬ様子だった。それもまた吾輩にはたまらなく痛快だった。吾輩のこましゃくれて悪意に満ちた質問の数々に新米非常勤講師は丁寧に答えてくれた。

やったことだけが残るのです。恥じることはありません

 土曜の放課後の職員室。消沈する吾輩と数人残った吾輩の悪童仲間に新米非常勤講師は言った。そして、吾輩たちを自宅へ招いてくれた。自由が丘の駅にほど近い住宅街の一角に新米非常勤講師の自宅はあった。広い敷地に建つ母家の外観は黒死館もかくやとでもいうべき古色蒼然としたものであって、外壁を越えて生い茂る庭の木々は鬱蒼としていた。
 新米非常勤講師の部屋は「知の洞窟」といった様相を呈していて、「風に揺れる欅の梢を眺めるため」に残された50センチ四方ばかりの窓を除けば、壁はすべて天井に届くほどの書棚に占領されていた。カビ臭かったが、生き生きとしていた。熾き火の熱のようなものが新米非常勤講師の部屋にはあった。酒を飲ませてもらい、晩飯にもあやかった。そして、「人生いかに生きるべきか」に端を発したことどもについて明け方まで語り合い、大笑いし、胸震わせ、放歌高吟し、ついには全員で雑魚寝した。あやうくも懐かしい忘れがたき思い出である。以後、新米非常勤講師の自宅を訪ねるたび、吾輩は断りもなく目についた書籍、ビニル・レコードの類いを持ち去り、新米非常勤講師がそれを咎めることはなかった。吾輩の手元にはいまも、返しそびれたまま光陰を経た新米非常勤講師の本とLPレコードがある。

「あんたは教員じゃない。教師だ。紛れもない教師だ。教師の中の教師だ」
 吾輩が言うと、その新米の非常勤講師は人目も憚らずに声をあげて泣いた。
「ここにいるほかの有象無象は員数合わせの教員にすぎない。員数合わせの輩どもから学ぶことなどない」
 生徒総会は静まり返った。
「おれの言うことに異議のあるやつは今言っとけ。生徒も教員どももだ。あとで陰でこそこそしやがったら、ただじゃおかねえからな。一番恐ろしいのは失うもののない奴だ。俺様だ。おぼえとけ!」
 しばし待つ。1000人を超える小僧小娘、教員全員が惚けたように俯いていた。吾輩が唯一、「教師」と認める新米非常勤講師を除いて。

 新月が青白く輝く夜だった。新月。Crescent/クレセント。白刃の切っ先のような青白い新月。その切っ先を突きつけられる。おまえはそれでいいのか?

「三日月じゃなくて新月」と新米非常勤講師は言った。「そのほうがずっといい」
「だな。ところで、これからどうするよ。おれはすでに退学する覚悟はできている。あんたは?」
「私もです。でも、森鳴さんは絶対に学校をやめないでください。絶対に。絶対という言葉を使うのは信条に反しますが、絶対に」
「あんたがいない学校で学ぶことに意味などない。大学へ行くについては、大検取って受験という手だってある。世界なんてのはすべてどうということのない過程の寄せ集めで出来あがってるんだ。例外なく、だれもが行き着く先は一緒だしな」
 そこでやっと新米非常勤講師は笑った。
「森鳴さんこそが私の教師です」
「今頃になって気づいたのか? にぶい野郎だ」
「すみません」
「謝って済むならマッポ、デコスケは用無しだ」
「でも、森鳴さんを警察に迎えに行くのはいつも私でしたよ」
「過ぎたことは忘れるんだな」
「忘れられないことだってありますよ」
「たとえば?」
「言いたくありません」
「言いたくなくても言うんだ」
「どうしてもですか?」
「どうしてもだ。それがおれと付き合うための掟である」
「わかりました」
「言うのか?」
「はい」
「本当は言いたくないんだよな?」
「はい」
「じゃあ、言わなくていい」
「いいんですか? 掟は?」
「世界には例外という便利なものがあるだろう」
「なるほど。さすが森鳴さん」
「でも、いつか聴かせろよ。あんたの言いたくなくて忘れられない思い出を」
「はい。いつか必ずお話しします。森鳴さんだけには是非とも聴いてもらいたい」
「うん。わかった。── 泣くなよ。湿っぽいのはごめんだ」
「わかってます」
「泣いてるじゃねえかよ」
「うれし涙です」
「そうか。うれし涙か。じゃ、泣きたいだけ泣いてよろしい。涙が涸れるまで泣け。おれのために泣け。少しはあんたのためにも。そして、死んだあんたの友人たちのためにも」
「えっ?!」
「すべてはお見通しだ」
「ありがとうございます。友人の── 」
「黙れ。みなまで言うな。すべてはお見通しだって言ったろう?」
「はい」
 沈黙。深く鋭く青白い炎のように研ぎ澄まされた沈黙。新月は身じろぎもせずに輝いている。風が耳元で少し鳴る。
「月の輝く夜だなあ」
「本当に」
「一杯飲むか?」
「それはちょっと」
「飲ませろよ」
「ヤバイですって」
「鞄に酒入ってるのもお見通しだがな」
「げっ」
「出しな」
「出しません。でも、落とします」
 新米非常勤講師はトリスのポケット瓶を地べたにそっと置いた。親指の腹でキャップを回転させて弾き飛ばし、ひと息で半分ほど飲んだ。そして、新米非常勤講師にポケット瓶を渡した。新米非常勤講師はちびちびと嘗めるように飲んだ。
「コルトレーンの『Crescent』と『Wise One』が聴きてえな。今夜の月とあんたのために」
「ありがとうございます」
「泣くなよ」
「泣きません」
「泣いてるじゃねえか」
「汗です。眼からしょっぱいものが出ているだけです」
 その後、今日に至るまで、最期まで、新米非常勤講師の口から「言いたくなくて忘れられない思い出」が語られることはなかった。だれにでも言いたくないことのひとつやふたつはあるものだ。それはさておき、新米非常勤講師はこの夏、 あの夜とおなじ白刃の切っ先のような青白い新月が輝く夜に、”例外なく、だれもが行き着く先” へ先に行ってしまった。吾輩の先を越すとはふざけた奴だ。しかも、吾輩になんの断りもなく。心得ちがいも甚だしい。まったくもって腹立たしいかぎりだ。吾輩の教育、指導が足りず、至らなかったのでもあるか。世界はまた一人、教師を失った。師と呼ぶに値する者を。それでもなお、万象は幽けき沈黙を守っている。

 Wise One ── 賢明なる者の死にこそふさわしい。

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 Wise One - John Coltrane Quartet
 Crescent - John Coltrane Quartet
 Crescent (Full Album/1964) - John Coltrane Quartet
 
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by enzo_morinari | 2013-08-20 05:37 | 昭和の寓話 | Trackback

小春おばさん、会いにいくよ

 
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小春おばさんが死んだ。102歳。大往生だ。小春おばさんは一人暮らしだった。子供はいない。親戚すらいない。天涯孤独。

こどもの頃、冬将軍様がおでましになり、風に焚火の香ばしいような匂いが混じりはじめると小春おばさんの家へ行った。そして、普段は決して口にすることのできない御馳走をたらふく食べ、縁側で小春おばさんの話を聞いた。小春おばさんは吾輩にあれやこれやのおいしいものをいくらでも食べさせてくれた。帰りがけにはけっこうな額の小遣いをもらった。初めのうちは御馳走と小遣いが目当てだったが、次第に小春おばさんの話を聞き、小春おばさんに自分の話を聞いてもらうのが目的になった。

小春おばさんの家は武蔵野にあった。家のまわりには雑木林がいくつもあって、どこかさびしげだった。まさに絵に描いたような「武蔵野の面影」のあるところだった。小春おばさんの家は木造のマッチ箱のように小さかったが、今思えばとても造りのいい家だった。家は黒塀で囲まれ、見越しの松までがあった。おそらく、花柳界時代のパトロン、旦那に建ててもらったのだろう。

横浜から東海道線と中央線と武蔵野線を乗り継いで小春おばさんのところへ行くのは、こどもの吾輩にとっては小さな冒険旅行にも匹敵する一大事だった。

駅からは徒歩で1時間近くかかった。行きはヨイヨイ、帰りはコワイ。冬の一日を小春おばさんの家で過ごし、帰るときには陽がとっぷりと暮れている。時代は昭和40年代末。いまのようにコンビニや24時間営業の店などない時代だ。しかも、小春おばさんの家は街場からずっと離れたところにある。ぽつりぽつりとある街灯と民家の明かりが頼りだった。いまは蛍光灯、LEDで街のどこもかしこも白っちゃけた明かりばかりだが、当時は白熱電球のオレンジがかった色が「街の色」だった。その色が子供ごころにとても温かく感じられた。

「乞食酒を飲んではいけない」
「人との付き合いはフィフティ・フィフティでなければいけない」
「馬鹿と野暮天とみみっちい人間とはかかわってはいけない」

いずれも、小春おばさんから教わったことだ。吾輩はこの言いつけをいまも守っている。守らねばならない。死ぬまで守りつづけねばならない。

小春おばさんは若い頃、赤坂の芸者だった。よく小唄や端唄、長唄や都々逸を聴かせてくれた。三味線を弾いているときの小春おばさんの背筋はしゃんと伸び、顔つきには凛とした色気、艶があった。若い時分の写真を見せてもらったが、目の玉が飛び出るほどの美人だった。その面差しに見覚えがあるのが不思議でならなかった。

小春おばさんは親戚ではなかった。実のところ、小春おばさんと吾輩がどういう関係にあるのかはいまだにわかっていない。しかし、吾輩にはわかる。おそらくは小春おばさんは吾輩の母親の実の母親、生みの親なのだと。つまり、小春おばさんは吾輩の祖母、おばあちゃんだったのだと。しかし、小春おばさんがそのことを明かすことは決してなかった。そのあたりのしがらみ、複雑で入り組んだ事情はもはや闇の奥深くに隠れようとしている。それでいい。それでいいんだ。そういう物語があるんだ。何者もその物語についてとやかくのことを言うべきではないし、手を加えるべきではない。まさに時代が生んだ物語なのだから。吾輩の心の中だけでひっそりと語られ、ひっそりと終りを告げる物語なのだから。

小春おばさんはいつもいかなるときにも小春おばさんだった。雨の日も風の日も雪の日もかんかん照りの日も。大きな地震があった日も。吾輩はそんな小春おばさんが大好きだった。

小春おばさん、会いにいくよ。あしたかならず会いにいくよ。そしたら、またあの縁側で昔の話を聞かせてほしい。ぼくはまだ小春おばさんが大好きなこどものままでいるよ。ずっといる。

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小春おばさん - 井上陽水
 
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by enzo_morinari | 2013-04-23 19:54 | 昭和の寓話 | Trackback

昭和の寓話#1 老兵は笑う

 
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遥か遠くの古ぼけた食堂で俺たちゃ日に三度、
豚の野郎と豆っかすばかり食う。
ビフテキなんぞとんでもねえ。ちくしょうめ!
砂糖ときた日にゃあ、紅茶に入れる分しかねえ。
だから、俺たちゃ少しずつ消えていくんだ。
老兵は死なず。ただ消え去るのみ。
二等兵さんは毎日毎日麦酒が飲める。
伍長様は自分の階級章がお気に入り。
軍曹殿は猛訓練とシゴキが大好物だ。
きっと奴らは永遠にそうなんだろう。
俺たちゃ朝から晩まで訓練訓練、また訓練。
この世界から消え去ってしまうまで。



父が死んだ。1週間前のことだ。米寿目前。大往生だった。縁台の陽だまりで眠るように逝った。いくつもシミの浮いた皺だらけの手には前の日に私が贈った真新しい携帯電話がきつく握りしめられていた。

関東大震災、従軍、戦後の混乱、高度経済成長期。父は文字通り激動の時代を生き抜いた。難しい議論はあろうが、現在、我々がまがりなりにも平和に暮らせるのは父の世代の奮闘奮励努力の賜物である。不徳にも父たちの流した汗や涙の重さを計測する秤を私はいまだみつけられずにいる。

「言多きは退くなり」「語りつくせぬことについては沈黙せよ」「沈黙は金。饒舌は銀」が父の口癖だった。母の気質を受け継いで口数の多い私を父はことあるごとにたしなめた。バブル経済が臨界寸前まで膨らみ、浮かれはしゃいでいる私に父は言ったものだ。

「眼差しは高く、手は低く」

志を高く持ち、目先の利害に惑わされるなと父は言いたかったのだろうが、当時の私に父の言葉の本当の意味が理解できようはずもなかった。父の危惧どおりバブル経済はもののみごとに崩壊し、私は完膚なきまでに叩きのめされた。

「朝のこない夜はない。すべては過程にすぎない。世界中が敵にまわっても、おれはおまえの味方だ」

困憊消沈する私にそう言って、父は銀行通帳と印鑑と不動産の権利書と保有する有価証券類の目録を差し出した。父の虎の子だった。私は危機をなんとか脱した。

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慌ただしい1週間だった。初七日の雑事をなんとか終え、家族総出で父の形見分けをしているとなつかしい写真が何枚も出てきた。古色蒼然としたそれらの写真の中の一枚。我が家に電話がやってきた日のすこぶる上機嫌な父をとらえた写真。受話器を持つ父は得意満面である。めったに笑うことのない父が一瞬垣間見せたとびきりの笑顔だった。

我が家に電話が開通したのは遅く、私が中学1年の春である。現在からは想像もできないが、当時は電話局に申し込んでから電話が開通するまで何週間も待たされた。電話が開通した夜、父は親類や知人友人に電話をかけまくり、電話をかけるように頼みこんだ。電話番号を伝えるとき、父はいかにも誇らしげだった。呼び出しのベルが鳴ると同時に、「電話だ。電話だ」と家中に響き渡る雄叫びを上げながら電話のある玄関まで一目散、脱兎のごとく走る父の姿はいまも鮮やかだ。

携帯電話をプレゼントすることを告げたとき、はじめ父は頑なに拒んだ。「携帯電話は不在の権利を行使できないから」というのが理由だった。いかにも父らしい。それでも、携帯電話ならいつでも孫たちとメールのやりとりができることを含めて携帯電話の利点を説明すると、渋々、承知した。

「味気ないメールとやらより、手紙や葉書のほうがうれしいんだがね。本当は」

そのように言いながらも父はうれしそうだった。私は操作が簡単で、番号ボタンも画面表示も大きくて見やすい機種を選び、父に贈った。父は操作マニュアルと首っ引きで生まれて初めての携帯電話と格闘していた。その晩、うれしかったのか好奇心からか、父は夜がふけても携帯電話を手放さなかった。

父が長年使っていた和室は妻や娘たちによって徹底的に片づけられ、いまや父が生きていた痕跡は文机と文箱と硯と筆と数冊の哲学書と漢籍、そして、床の間の壁にかかる奥村土牛の掛け軸に残っているだけだ。主を失った六畳間はやけに広く感じられた。父が若かりし頃から愛読しつづけていたニーチェの『善悪の彼岸』をぱらぱらとめくり、文机の縁を撫で、筆を手に取り、奥村土牛の掛け軸を眺めていると父の気配を強く感じた。それは気配というよりも、手ざわりのごときものでさえあった。

父との思い出のいくつかが去来する。真冬の天体観測、逗子海岸での蟹獲り、丹沢山系縦走。高度経済成長期のまっただ中を企業戦士として生きた父は家族とすごす時間をほとんど持てなかったが、数少なく宝石のような思い出を残してくれた。思い出がおぼろげに見え隠れする。かなしくも、面影は日々、うすれゆく ── 。

私の二十歳の誕生日の朝、父は私を書斎に呼び、正面に正座させ、自分も正座して居ずまいを正し、おごそかに宣言した。

「君は1958年の春の盛り、夜ふけの10時22分に生まれた。私も君の母さんも大層よろこんだ。私に限って言えば、君のその後の経緯については判断留保だがね。私は地方出張中で君の誕生には立ち会えなかった。君の誕生の知らせは電報で届いた。さて、君は本日をもって成人する。以後、自主自律で生きてもらう。この家からも出ていただく。寝倉はすでに用意してある。先々代の時代から懇意にしていただいている本郷の下宿屋さんだ。大昔、私がお世話になった下宿でもある。今日までの私と君とのあいだに存する貸借関係はいったん御破算とする。引っ越し費用と当面の生活費です。受け取りなさい。これについてはいずれ少しずつ返済しなさい」

父は言い、茶封筒を私に手渡すと、脇目もふらずに書斎を出ていった。青天の霹靂だったが、父の意志は固く、懇願する母にとりつく島をいっさい与えなかった。その日の夕方には運送会社のトラックが家に横づけされた。あの朝から30年以上の月日が経つ。当初は父をうらんだ。憎みさえした。冷酷な仕打ちとも思った。だが、いまは感謝の気持ちのほうが強い。

文机の前に正座し、眼をとじる。言葉にならない思いが次から次へと去来する。午後10時22分。54年前の今日、まさに私がこの世に生をうけた時刻。メールの着信を知らせる電子音が鳴った。メールは父の携帯電話からだった。わが眼を疑った。父がメールの送信予約をしていたのだということに気づくのにしばらくかかった。やるじゃないか。親父殿。

わがむすこよ、たんぜうびおめでたふ。けひたひでんわをありがたふ。かういんやのごとしなれどもらうへいはしなず。ただきへさるのみ。じんせひかかたいせう。ひびこれかうじつ。こんぱひのときにもおおらかたれ

(わが息子よ、誕生日おめでとう。携帯電話をありがとう。光陰矢の如しなれども老兵は死なず。ただ消え去るのみ。人生呵々大笑。日々是好日。困憊のときにもおおらかたれ)

父の最初で最後のメールは、私への「応援歌」でもあった。私は曇る目頭をこすりながら、万感の思いをこめて返信文を打った。

「わが親父殿よ、ありがとう。あなたの息子として生まれて幸せだった。老兵よ、ただ静かに眠れ。人生呵々大笑。日々是好日。我、おおらかに委細承知」

静まり返った夜ふけの部屋に着信音が鳴り響く。部屋の隅の文箱の中からだった。それは父の笑い声とも聴こえた。

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by enzo_morinari | 2013-03-18 02:58 | 昭和の寓話 | Trackback