カテゴリ:超絶短編・集( 3 )

火処ばしる女

 
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その昔、横浜の保土ヶ谷駅にほど近い山側に「火戸」あるいは「含所」または「秀所」と呼ばれる集落があって、そこに住まう50がらみの女に逢いにちょくちょく出かけた。吾輩はまだ20代の前半であって精が漲り、迸り出ようとするのを抑えようがなかった。

吾輩は多いときには週に4度も5度も女のところに通い詰め、それこそ朝から晩までどころか翌日までひたすらに女と交わりつづけた。

女は吾輩と出会う1年ほども前に夫を亡くしていて、女盛りの身を持て余す日々を送っていた。女は吾輩を一目見るなり、生唾を飲み込んだ。そして、ただひと言、「したい」と言った。乾くことのない日々の始まりだった。水温む季節さえ炎熱のような乾ききった空気が吹きつけていた。

女があまりに気をやるのと、女の玉門の肥大した陰唇が吾輩の摩羅とともに中に巻きこまれて痛むのでほとほと困り果てた吾輩はいくたりかの「道具」を使う怠惰を犯すようになった。女は初めのうちは悦んでいたけれども、そのうちに吾輩の怠惰、不実を責め立てた。集落の後家のいくたりかと寝たことが女に露見したことで、女の怒りは爆発した。

そして、ついに女の火処が憤怒の炎を噴き出すときがきた。女の火処から熾火のような色をした火焔が噴き上がる態は地獄の業火もかくやとでもいうべきものであった。

女は火焔を吐き出すだけ吐き出すと、さざ波ひとつ立たぬ水面のような褥に長々と伸び、大鼾をかいて寝てしまった。それが生きている女を見た最後だ。そのときに灼けた左肩の焔痕はいまも消えずに残っている。

その後、女はブバカル・トラオレの『マリアマ』がエンドレス・リピートでかかる薄暗く湿った黴臭い部屋で首を吊った。春の盛りのことだ。なぜ女が最後にブバカル・トラオレの『マリアマ』を聴きながら果てたのかは、いまだにわかっていない。

生前、女の口から音楽の話が出たことはないし、女がブバカル・トラオレを知るはずもない。あるいは、ブバカル・トラオレの悲しげな歌声に魅入られでもしたか。謎が解けることは今後もあるまい。


ブバカル・トラオレが「ピエレット。ピエレット。道化。道化」と歌っている。道化た椿事でも起きて世界が一瞬にして滅ぶことを願う春の宵だ。


Mariama - Boubacar Traoré [1990]
 
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by enzo_morinari | 2014-05-08 13:08 | 超絶短編・集 | Trackback

水走る女

 
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水走る女は水の神、呪いの神、大蛇(オロチ)、蛟(みずち/みつち)の化身であって、精霊、物の怪、妖怪のたぐいである。水走る女は蜜迸り、滴る女でもある。古事記・日本書紀に弥都波能売神・罔象女神(ミツハノメノカミ)/水波能売命(ミヅハノメノミコト)とある。祖は水のマナの都、任那。

水走る女に名をたずねたら、四方に伸びた紙漉きの手をやすめて、「水沼」と答えたのには大層驚いた。驚いたついでに、刻みあげて水葉や鰆と一緒に鍋にして喰ってしまった。


春はいよいよ盛り、不吉な風がとるろとるろとろりとろりと吹きわたっていく。
 
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by enzo_morinari | 2014-05-07 16:45 | 超絶短編・集 | Trackback

屋根裏部屋の王が創造した「掌の中の宇宙」

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 目の前の机の片隅で月明かりを浴び、一個の懐中時計が光っている。眼を凝らすと水晶でできた文字盤に月が映りこんでいる。
 掌の中の宇宙に浮かぶ月。
 その懐中時計の名は [Marie Antoinette/BREGUET NO.160]。数奇な運命をたどった伝説の時計である。1783年、ルイ16世の妃、マリー・アントワネットは当代最高のキャビノチェ(時計職人)であるアブラアン・ルイ・ブレゲを直接呼びつけ、護衛官を通じて「すべての機構、装飾を盛り込んだ史上最高の時計」を作るよう命じた。あらゆる複雑機能と最新の装飾を要求し、費用無制限、納期無期限という破格の注文だった。
[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]は完成した時点で時計技術の最先端そのものであることを運命づけられていた。アブラアン・ルイ・ブレゲ本人が時計技術を次々に革新していくのであるから、新しい技術、機構を発明するたびに、それらは[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]に投入されなければならなかった。「技術革新」はブレゲにとっては自らを縛る頸であった。「永遠に完結しない完全性」を追い求めてブレゲは何度も設計をやり直し、落胆し、シシューポスの嘆きを味わったにちがいないことは容易に想像がつく。
 発注から6年後の1789年に勃発したフランス革命によってマリー・アントワネットは処刑されるが、何度かの中断を挟みながら、[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]の開発は密かに続けられた。さらに、ブレゲの死後も[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]の製作は続き、1827年、ブレゲの息子の代でついに完成した。マリー・アントワネットの「希代の注文」から実に44年の歳月が流れていた。
 パーフェクト・パーペチュアル・カレンダー(永久暦)、暗闇でも打鐘音で時を知らせるミニッツ・リピーター、重力の影響による誤差を修正するトゥールビヨン機構、二重の耐衝撃機構、均時差表示、金属温度計、パワーリザーブ表示、インディヴィジュアル・バトンとスモール・セコンドなど、ブレゲ開発による最新の技術が盛り込まれた時計史上に燦然と輝く最高傑作の誕生であった。

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 私が[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]を手に入れたのは1983年の春のことである。エルサレムのL.A.メイヤー記念美術館に忍びこみ、厳重なセキュリティを破って盗み出したのだ。私の掌の中で妖しく輝く[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]。時を知らせる道具の範疇を遥かに超えて、それはまぎれもなく「小さな宇宙」である。
 時計は見えない「時間」、存在しない「時間」を小さな歯車と螺子の集積によって視覚化する「時の芸術品」である。「時の芸術品」を生みだすキャビノチェは科学全般、哲学思想に秀でた大知識人でもある。彼らの社会的地位はたいへんに高く、人々の尊敬と羨望の眼差しを受ける存在だった。キャビノチェの語源は「屋根裏部屋(キャビネット)」。薄暗い屋根裏部屋で哲学の深淵と科学の粋を小さな機械に注ぎこむ時計職人を当時の人々は敬意を込めて「屋根裏部屋の住人(キャビノチェ)」と呼んだ。キャビノチェの哲学、思想、天文学、冶金学、金属学、物理学、音響学等に関する知識と技術の結晶が時計なのだ。そのキャビノチェの王として君臨しつづけたのがアブラアン・ルイ・ブレゲである。時計の歴史を200年早めたと言われる、古今東西に比類なき孤高の天才だ。ブレゲの顧客には王侯貴族、最高権力者、文学者、音楽家などが名を連ねる。かのナポレオン・ボナパルトやヴィクトール・ユゴー、バルザック、アレクサンドル・デュマもブレゲの時計を愛用した。フランク・ミューラー? ブレゲの前では赤児も同然である。
 
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 [Marie Antoinette/BREGUET NO.160]を見ていると、ブレゲが「宇宙の運行」をそこに込めたのではないかとさえ思える瞬間がある。
「時間を、宇宙をみつめなさい」
 ブレゲのそんな声が聴こえるようだ。29年のあいだ、私は常に[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]、ひいてはアブラアン・ルイ・ブレゲ本人に問われつづけてきた。「時間とはなにか? 宇宙とはなにか?」と。私が機械式時計に魅入られ、ついにはその究極のかたち、最終解答である[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]を我がものにしようと考えたのは、「時間とはなにか? 宇宙とはなにか?」という問いへの解答を見つけたかったからにほかならない。答えはみつかった。もはや、[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]が私の手元にある必要も理由もない。そろそろ、マリー・アントワネットの元に[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]を届けよう。彼女の墓に供え、両者を対面させるのだ。マリー・アントワネットは今度は時間を浪費することもなく、無意味な豪奢に囚われることもなく、ただ静かに時間を、宇宙をみつめることだろう。時の流れは死者の魂のありようさえ変貌させるのだ。


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by enzo_morinari | 2012-09-17 05:01 | 超絶短編・集 | Trackback