カテゴリ:わが心のベイサイド( 1 )

わが心のベイサイド#01

 
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帰りたい街が見えた。正確には、帰れない街が見えた。T.N.
R. チャンドラーは人生の師匠、固茹で卵はわが主食。E.M.M.

もしも俺がフィリップ・マーロウなみのタフガイか、ジーン・ケリーばりのタップの名手だったならば、俺の「青春」とやらも少しは気の利いたものになっていたかもしれないな。お生憎さまだ。俺は相手の鼻っ柱を一発でへし折るだけのストレート・パンチを持ち合わせていなかったし、女の子をうっとりさせるほどのタップを踏むセンスにも恵まれていなかった。取り柄らしいものがあるとすれば、アルコールに対する類まれなる強さとサキソフォンで『レフト・アローン』をジャッキー・マクリーンばりに吹けることくらいだ。このふたつについて、そんなものは取り柄なんかじゃないと異議申し立てする奴がいても俺はいっさい取り合わない。もちろん、言い訳もしない。実際、1ダースのウィスキーの空き瓶で飯のタネが稼げるわけではないし、むせぶようなサックスの音色が明日を保証してくれるわけでもない。そもそも、ウィスキーの空き瓶など取っておくものではない。たとえそれがMacallan Private Eye 35th AnniversaryあるいはMacallan 1928/50 Year Oldもしくは木箱入りのGlenfarclas The Family Casks 1953であってもだ。明日はただ追悼するためにだけあればいい。

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まあ、そんなわけで、明るい表通りで胸を張って表明できるような種類の取り柄を俺はなにひとつ持ち合わせていないということだ。しかし、フィリップ・マーロウだってコンチネンタル・オップの前では青二才の新米探偵にすぎなかったろうし、ジーン・ケリーにしたところでフレッド・アステアには舌を巻いてシビれていたにちがいない。俺はそれをある種の慰めとして受け取ることで、「輝かしき青春」とはまるで無縁にばかばかしさとかなしさの渦巻く時代の真っ只中を今日まで漕ぎつづけることができたというわけだ。そして、俺はついに30歳になった。

30年。気が遠くなるほど長い年月だ。同い年の奴の中には世界の平和を訴える者さえいる。 区役所の戸籍係として住民基本台帳をまるごと暗記しているやつだっているかもしれない。30歳の記念に俺がしたのは部屋の扉に「ベイサイド探偵社」の看板を掲げることだった。看板には一行のラテン語の成句をいれた。

Fluctuat Nec Mergitur

意味は「漂えど沈まず」。俺の好きな言葉だ。座右の銘というやつだな。パリの市民憲章でもある。看板を掲げたのは、人生の半分を降りたという俺の宣言である。

かねがね、探偵は人生を最低でも半分降りた者でなければ務まらないと考えてきた。だから、俺にも探偵を名乗る資格はある。もっとも、探偵社の看板を掲げたからといって俺は本物の探偵というわけではない。だいたいからして、俺は探偵の経験などこれっぽっちもないのだ。探偵に関係するものといえばレイモンド・チャンドラーとミッキー・スピレインのペーパーバックが本棚に何冊かあるにすぎない。『尾行入門』なんて怪しげな本もあるが、それは『思考は現実化する』の類の本とおなじ程度に馬鹿げた内容だ。20世紀における空虚なもののベスト・テンにまちがいなく名を連ねるとさえ思えるくらいだ。

俺の本業は中古の電器製品を外国船の船員に売る仕事だ。中古バイクや廃車になった自動車を売ることもある。大型電器店や運送屋の何軒かと契約を結び、廃品の電器製品を手数料を貰って引き取る。それをさらに船員に売りさばく。二重の儲けというわけだ。カネを貰ってゴミを集め、それをさらにカネにする。まさに錬金術だ。ある金持ちの未亡人は俺の右肩に頭をもたせかけながら、俺の仕事について「完璧な生態系ね」と言った。「完璧な生態系」か。金持ちの未亡人という人種は物事の本質がなにひとつわかっちゃいない。経験上、例外はない。運に見放された料理人の見映えだけはいい料理を食いすぎたうえに、「オサレなカフェの午後のお茶の会」でまがいもののお紅茶をお召し上がりあそばしすぎたせいだろう。完璧な絶望が存在しないように完璧な生態系だってこの世界には存在しないことも知らずに。「完璧な生態系」はウガンダ系日本人、ハルキンボ・ムラカーミが経営する小港町のナイーヴ屋でならひと山いくらで売っているかもしれないが、そのことは黙っていようと思う。

この商売を始めて3年になる。1990年の夏からだ。きっかけはバブル経済の崩壊である。あの金ピカ時代に俺はたいていのものを手に入れ、そしてすべてを失った。金も友情も信用もだ。岸壁から車ごと海に突っ込むつもりで本牧埠頭D突堤に来たとき、外国船の船員相手に商売をしている年寄りを見た。その年寄りはどう見ても粗大ゴミとしか思えないようなモノを売っていたのだ。しかも、船員たちは興奮して我先にと荷台の粗大ゴミに飛びついている。荷台に満載されていた粗大ゴミは瞬く間に消えてなくなった。年寄りの手にはドル紙幣が束で握られていた。

知り合いの中古車屋から廃車寸前の4トントラックをただ同然で手に入れ、運送屋や電器店を回って廃品の家電製品を集めた。もちろん、その当時は引き取り料を貰うことは思いもよらなかった。頭を下げて、恵んでいただくのだ。当時はドルの交換レートが今ほど安くなかったから、一日に冷蔵庫を一台も売れば充分に喰っていけた。2ドア冷蔵庫の場合、程度が良ければ一台100ドルで売れた。1ドルが250円前後を行き来していた時代だからけっこうな稼ぎになった。

産廃業と古物商の免許を取るのはかなり苦労したが、取ってからというもの、商売は軌道に乗った。引き取り料と売った分とで、軽く会社勤めをしていた頃の平均月収の20倍は稼ぐことができた。今は5人の人間を雇っている。売り上げを折半する条件だ。小港に借りている倉庫には中古品が山のように積んである。一番よく買うのはアジアの船員である。ロシアの船員もけっこういい客だったが、ロシア経済の悪化に伴い、近頃はほとんど買わなくなってしまった。

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その夜、シーメンズ・クラブはいつにも増してにぎわっていた。酔ったロシアの船員が店の隅にある調律の狂ったアップライト・ピアノでモーツァルトのピアノ・コンチェルトを弾いていた。14番だった。彼の演奏スタイルはマウリツィオ・ポリーニの影響を強くうかがわせた。問題はロシアの船員ピアノ弾きには高貴なピアニズムと冷徹な硬質さが欠如していることだった。おまけに彼はところどころで取り返しのつかないミスを犯していた。涙を流すというミスを。きっと、故郷に残してきた家族のことが彼の頭の中をよぎったんだろう。

感情に溺れていてはマウリツィオ・ポリーニの影さえ踏めない。彼はポリーニの起こした奇跡、ショパンの練習曲の10番と25番を繰り返し繰り返し聴かなければならない。そのことをメモに書いて20ドル札と一緒に鍵盤の端っこに置いてやった。ビリヤード台のまわりではフィリピンの船員が馬鹿騒ぎしていた。俺は米ドルを日本円に交換し、カウンターの席に座った。

「探偵稼業を始めたぜ、ジミーさん」
「そりゃ、たいしたもんだ」

ジミーは俺の前に氷の入ったロック・グラスを置き、カティーサークを注いだ。

「早い話が、よろず揉め事引き受けますってわけだ」
「今の商売はやめるのかい?」
「つづけるさ」
「なるほど。二足の草鞋というわけだね」
「まさに」
「うまくいくといい」
「ありがとう」
「これはあたしからのお祝いだよ。新米探偵さん」

ジミーはそう言うと、俺の前にカティーサークのボトルを置いた。同時に、ロシアの船員ピアノ弾きが血相をかえてやってきて俺に抱きついた。そのあとのことは話せば長い。ロシアの船員ピアノ弾きの名はセルゲイ・バシーリィニコフ。チャイコフスキー記念国立モスクワ音楽院を首席で卒業した本物のピアニストだ。音楽家だけでは喰っていけず、仕方なく船員をやっていた。セルゲイとは以後、強い絆で結ばれることとなるが、それはまた別の話だ。この夜のこともいずれあきらかになるはずだ。

初めての依頼人は看板を掲げて三日目に現われた。マイルス・デイビスの古いレコードを聴きながら、俺は一杯引っかけていた。前の晩、フィリピン船のセカンド・オフィサーからもらった安物のウィスキーだ。ストレートで飲むとガラスのような味がした。窓からやけに大きな夕陽が見えた。

マイルスが空気を引き裂くような鋭いハイ・ノートをヒットさせたとき、ノックの音がした。ノックは初めにゆっくりと二回、次にためらいがちに三回鳴った。ドアを開けると、そこに太った若い男が憔悴しきった顔で立っていた。「たすけて」と男は変なアクセントで言った。俺は男の目を見据え、品定めしながら「入れよ」と言った。

男はチャーリー・チャンと名乗った。上海出身だと言う。チャーリー・チャンはやってきてから正確に15分、濡れネズミのように震えていた。どんよりと濁った瞳には生気のかけらも感じられない。唇からは血の気が失せ、眼のまわりには黒々とした隈を貼りつけている。「たすけて」とチャーリー・チャンは再び言った。今度ははじめより少しだけまともなアクセントだった。俺はグラスにウィスキーをなみなみと注ぎ、チャーリー・チャンの前に置いた。

「飲めよ」

チャーリー・チャンは震える手でグラスを固く握りしめ、口元にもっていった。グラスと歯とがぶつかり、カチカチと乾いた音を立てた。

「なにがあったんだ?」

俺が尋ねるとチャーリー・チャンはグラスのウィスキーを飲み干して絞り出すように言った。

「電話」
「えっ?」
「真夜中に、電話」
「誰から?」
「わからない。なにも言わない。もう三ヶ月」
「俺のことは誰に聞いたんだ?」
「ジミーさん」
「シーメンズ・クラブのジミーか?」

チャーリー・チャンは答えるかわりに空のグラスを俺のほうへ突き出した。俺はウィスキーをグラスに2/3ほど注いでやった。

「助けてくれますか?」
「事と次第によるな」
「お金はちゃんと払います」
「そういう問題じゃない」

マイルスがまたハイノートをヒットしやがった。少しばかり厄介な夜になりそうだった。
 
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by enzo_morinari | 2012-12-30 23:30 | わが心のベイサイド | Trackback