カテゴリ:丸の内アフター・ユーヴ・ゴーン( 1 )

丸の内アフター・ユーブ・ゴーン#1

 
c0109850_17235293.jpg


クリスマス・イヴに繰り返し聴くKENNY Gの『Have Yourself a Merry Little Christmas』


KENNY Gの『Miracles: The Holiday Album』がリリースされた1994年。私はヤードバード・ワールドからリリースされて自由な世界に舞い戻った。翼は強靭になっていたが、しなやかさがいくぶんか失われているように感じられた。ヤードバード・ワールドは深く重苦しい沈黙が支配する「沈黙の王国」だった。

貧乏な沈黙の王家は道ばたで言葉なく物乞いをし、南方を目指す郵便船の船艙では『死の家の記録庫』から命からがら脱出したカラマーゾフの一族がなけなしの「罪と罰」を賭け金にして、無言でいつ終わるともしれないバカラ賭博に血煙を上げながらのめり込んでいた。そのような世界から解き放たれ、私はとにかく音に飢えていた。

街の音、風のそよぎ、樹々が揺らぎ、葉や枝がこすれる音、水辺のさんざめき、クルマのクラクション、雑踏。世界のなにもかもが輝いてみえた。そして、なにより、すべての音楽が「天上の音楽」に聴こえた。セルジュ・ゲンスブールの歌声さえもだ。

私は3度目の離婚をすったもんだのすえに完了し(なにが「ニコニコ離婚講座」だ! 冗談じゃない)、M.L. ロストロポーヴィチの演奏会で偶然隣り合わせた5歳年上の駆け出しのチェリストとの凄味を帯びた恋愛ゲームにエネルギーの大半を費やす事態に陥っていた。いい恋ではあったのだが、私はまだいくぶんか若すぎ、ガールフレンドは過激すぎた。

デートのたびにわれわれは大笑いし、おたがいに途切れることなくしゃべりつづけ、情報交換し、どちらかがみつけた新しいレストランでおいしくて愉快で満ち足りた食事をし、ワインとチーズに関する新たな知識を集積したうえで共有し、食後は彼女の部屋か私の部屋かホテル西洋銀座でかなり激しいメイクラヴをし、翌朝には紅茶かコーヒーかカフェ・オ・レを飲みながら口喧嘩をし、有栖川公園の熾仁親王の騎馬像の下で軽めのハグをしてから別れた。そのような日々が半年ほどつづいた秋の終わり、われわれは経験と人生と世界と自己表現をめぐる問題で決定的な諍いをした。

恋にはいつか終りがやってくる。私はまだいくぶんか若すぎたが、それくらいはわかっていた。恋の終りを経験するのだって一度や二度ではなかった。離婚だってしている。しかも3回も。しかし、セロ弾きのガールフレンドとの別れはかなりこたえた。彼女のにおいや笑い声や仕草やメイクラヴの最中にみせるあられもない姿が頭の中から離れなかった。それは彼女もおなじだったと思う。

なにを食べても味がせず、食欲は落ち、酒はただにがいだけで、音楽を聴いても心は動かず、世界が色あせて見えた。神宮外苑の銀杏並木の色づきさえ褪せて感じられた。褪せるどころか世界からはすっぽりと色が失われた。The End of The World. あのとき、たしかに世界は終りを告げた。世界の終りを告げるホイッスルは世界の果てまで鳴り響いた。スキーター・デイヴィスの歌声さえ痛みに変わってしまうほどに。

そんな1994年のクリスマス・イヴ。私は仕事を早めに切り上げ、パーティーの類いもすべてキャンセルして自分の部屋に帰った。街のクリスマスのデコレーションもどこかから聴こえてくるビング・クロスビーの『ホワイト・クリスマス』やナット・キング・コールの『Merry Chrismas to You』も当時の私にはつらかった。だから、一刻もはやく自分の部屋で一人になり、強い酒を何杯かあおって酔いどれ、ベッドにもぐりこんでしまいたかったのだ。

そして、1994年12月24日午後9時42分。電話の呼び出し音が鳴った。セロ弾きのガールフレンドだった。電話を切って5分後、今度はドアベルが鳴った。やっぱりセロ弾きのガールフレンドだった。うしろにやや痩せ気味のサンタクロースを従えていた。

「こんばんは。おひさしぶり。そして、メリークリスマス&ハッピー・バースデー」

そう言ってセロ弾きのガールフレンドはバーニーズ・ニューヨークの黒い包みを差しだした。そして、くるりと背を向けた。

「待てよ。話はまだ終わっちゃいない」

ぴんと背筋の伸びたセロ弾きのガールフレンドの背中に声をかけた。セロ弾きのガールフレンドとやや痩せ気味のサンタクロースが同時に振り向いた。

「とにかく、部屋に入ってくれ」

セロ弾きのガールフレンドだけが部屋に入った。やや痩せ気味のサンタクロースは静かにうなずき、「午前零時までは橇でお待ちしております」と言い、エレベーター・ホールに向かって滑るように歩いていった。

「彼は?」
「臨時雇いのエスコート係よ」
「痩せ気味のサンタクロースが?」
「そう。彼のことはこれ以上きかないで。おねがい」
「わかった。で?」
「でって?」
「御用件は?」
「わかってるくせに」
「うん」
「ごめんなさい」
「うん。おれのほうこそ」
「プレゼントあけてよ」
「うん」

バーニーズ・ニューヨークの黒い包みをあけると、中にはトスカーナ・ブルーのタイクーン・カシミアのマフラーとそろいの手袋とKENNY GのCD『Miracles: The Holiday Album』が入っていた。

「聴いてよ。すごくいいから」
「うん。ありがとう。マフラーも手袋もすごくいい」
「あら。あなたからお褒めの言葉をいただくのは初めてだわ」
「褒めるべき点があれば褒める。なければ褒めない。当然だろう? ところで、『Miracles: The Holiday Album』はおれも持ってるよ」
「でしょうね。でも、いいの。これから長いあいだ何回も何回も聴くことになるんだから。予備に持っておいて」
「うん。そうするよ」

私はCDプレイヤーに『Miracles: The Holiday Album』をセットし、プレイボタンを押した。

「3曲目。3曲目の『Have Yourself a Merry Little Christmas』をあなたといっしょに聴きたかったのよ」
「ああ。なるほど。『Have Yourself a Merry Little Christmas』ね。この演奏はいい。すごくいい。いろんなミュージシャンがカバーしてるけど、KENNY Gのパフォーマンスが一番だと思う。おれもきみといっしょに聴けたらいいなって思っていたよ」

私が言うとセロ弾きのガールフレンドの顔がみるみるくずれ、歪んだ。

「泣くのかい?」
「うん」
「オーケイ。いいよ。好きなだけ泣いていい。おれもおなじ気分だから。酒があればなおいいんだけどな。きみが来る前に全部飲んじゃったんだ」
「あるわよ」

セロ弾きのガールフレンドは言い、レンガ色のバーキンから赤と白のシャトー・マルゴーとクリュッグのラ・グラン・キュヴェとマイヤーズ・ラムのボトルを取り出した。

「きみはサンタクロースか?」
「そうよ」
「いつから?」
「きょうだけ特別に」

われわれはシャンパンをあっという間に飲み干し、固くなった食べかけのパン・ド・カンパーニュとカマンベール・チーズを分け合って食べ、シャトー・マルゴーも飲み干し、ダロワイヨのビター・チョコレートをつまみにしてマイヤーズ・ラムを瓶から直接飲んだ。そのあいだ、『Have Yourself a Merry Little Christmas』が小さな音で繰り返し聴こえていた。

いいクリスマス・イヴだった。人生で経験した100万回くらいのクリスマス・イヴの中で一番かもしれない。親和的で理屈や言い訳がましい言葉はなにひとつなく、繰り返し聴こえるKENNY Gの『Have Yourself a Merry Little Christmas』は心の奥深くにしみるほどいい演奏で、おまけに彼女はとても美しかった。

午前零時ちょうどには私とセロ弾きのガールフレンドを祝福でもするように、サンタクロースがトナカイに鞭をくれて橇を走らせる幾百万の鈴の音が聴こえた。

c0109850_17251223.jpg

翌朝、セロ弾きのガールフレンドは宣言でもするように言った。

「年が明けたら日本を離れるの。アデュー・ジャポンよ」
「そうか」
「その前にどうしてもあなたに会いたくて」
「うん。会えてよかったよ」
「いつかまたかならず会いましょう。ね? いいでしょ?」
「もちろんさ」
「わたしたちには適度な距離感が必要なのよ。あなたとお別れしてやっとわかった」
「おれもおなじことをずっと考えてた」
「そう。似てるわね、わたしたち」
「似てる。似すぎるくらいに。だからこそ ”適度な距離感”が必要なんだ」
「そうね」
「ただしね。きみの『マグナ・カルタ』と『フィネガンズ・ウェイク』と世界秩序に関する解釈は絶対に資本家の走狗、お先棒担ぎ的にまちがってる」
「あら。それを言うなら、あなたの『マチュウ・パッション』と『ルルティマ・チェナ』と原母語に関する解釈は独善的すぎるわよ」

われわれは顔を見合わせて大笑いした。その日の朝は言い争いをすることもなくおだやかだった。そして、われわれは手をつないで有栖川公園まで散歩し、熾仁親王の騎馬像の下で軽めのハグをした。セロ弾きのガールフレンドのオーバーコートの襟口から彼女がまとうフレグランス、『Vol de Nuit』の森の中をさまよっているような密やかで凛と背筋の伸びた香りが立ちのぼってきた。

「日本を離れるときは教えてくれ。見送りくらいするから」
「見送り? やめてよ。あなたには似合わない」
「そうか。わかった。きみの言うとおりにしよう」

小さな沈黙がわれわれのあいだに落ちた。ローン・テニスクラブの緑色のフェンスの上で沈黙の王家がコサック・ダンスのような踊りを踊っていた。沈黙を破ったのはセロ弾きのガールフレンドだった。

「おねがい。クリスマス・イヴにはかならずKENNY Gの『Have Yourself a Merry Little Christmas』を聴いて。そして、わたしのことを思い出して。わたしも世界のどこかでかならず聴いているから。何度でも。繰り返し繰り返し。そして、あなたのことを思うから」
「うん。わかった。よろこんでそうするよ。クリスマス・イヴには繰り返しKENNY Gの『Have Yourself a Merry Little Christmas』を聴いて、ずっときみのことを思うよ」
「ありがとう」
「こちらこそ」
「じゃ」
「じゃ」

われわれはもう一度ハグし、握手をし、別れた。以来、彼女とは年に一度か二度会い、食事をし、酒を飲み、他愛のないおしゃべりをし、音楽を聴き、『マチュウ・パッション』や「世界秩序」その他について論争し、おだやかなメイクラヴをし、有栖川公園まで散歩し、熾仁親王の騎馬像の下で軽めのハグをし、最後は握手をして別れる。いい関係と言えばいい関係だ。彼女はセロ弾きとしてそこそこの成功をおさめた。それがなによりうれしい。


今年ももうすぐKENNY Gの『Have Yourself a Merry Little Christmas』を繰り返し聴くクリスマス・イヴがやってくる。

c0109850_17253270.jpg

Kenny G - Have Yourself A Merry Little Christmas (1994)
 
[PR]
by enzo_morinari | 2013-11-13 17:27 | 丸の内アフター・ユーヴ・ゴーン | Trackback