カテゴリ:流儀と遊戯の王国( 22 )

パリの空の下のバラ色の人生 ── ラデュレのバールで「君の瞳に乾杯」したあとハシゴ酒する。

 
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ラデュレのバールで「君の瞳に乾杯」する。
遠い異国から客人が遥々やってきた。バツイチになったばかりだというその人物はインターネット黎明期に吾輩が出没していたあるチャット・ルームの常連で、当時は大学生だった。吾輩の幻惑衒学のエクリチュール・クワルテットによってコテンパンにされていたうちの一人である。

「酒は飲めるのかね?」
「はい」
「かなり飲めるのかね?」
「はい」
「ものすごく飲めるのかね?」
「はい」
「では、君の瞳に乾杯だ」

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安酒がやけにどてっ腹にしみる夜だった。
「だれにだって触れられたくない疵のひとつやふたつはある」と吾輩は言い、カルヴァドスの杯をあけた。そして、隣りにいる遠い異国から来た若者をみた。若者はうつむき、大粒の涙をぽたぽた床に落としている。

「なんの涙だね?」
「言いたくありません」
「言いたくなくても言うんだ」
「言わないとだめですか?」
「言わないとだめだ。それが掟である」
「なんの掟ですか!」
「吾輩と一緒にいるときの掟である」
「言います」
「いい子だ」
「うれし涙です」
「そうか。では、今夜は好きなだけ泣いてよろしい。いや、吾輩が泣かしてやる」

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本物の一流になることが一番大事なことなのだ。
「いいか? ここが肝心なところだからよく聴くんだぜ」と吾輩は言い、カルヴァドスをシルヴプレした。遠い異国から来た若者の眼にいつのまにか輝きが戻っている。

「今、すごく気分がいいだろう?」
「はい」
「なぜだと思う?」
「わかりません」
「考えろ」
「考えてもわかりません」
「わかるまで考えなさい」
「日が暮れてしまいます」
「もう夜だ」
「それじゃあ、夜が明けてしまいます」
「夜明けは遠い」
「うーん」
「もう逃げ場はない」
「もう死にたいです」
「仕方のない奴だ。では、教えてやろう」
「はい」
「本物の一流の場所で本物の一流と一緒にいるからだ」
「あ。なるほど」
「本物の一流になれ。いいな? 吾輩は本物の一流と本物の一流になる可能性のある者と本物の一流になろうと努力する者としかつきあわない」
「はい。でも、本物の一流になるためにはなにをすればいいんですか?」
「知りたいかね?」
「はい。もちろんです」
「どうしても知りたいかね?」
「どうしても知りたいです!」
「ロハで?」
「おカネは帰りの飛行機代しかありません」
「困ったな」
「わたしも困ってます」
「きみに困られては吾輩はもっと困る」

吾輩が言うと遠い異国から来た若者はくくくと笑った。

「本物の一流になるためにはだな ── いつも、常に、求めることだ」
「はあ? それだけですか?」
「無料の場合はこの程度である」
「飛行機代はあきらめます」
「ほんとか?」
「本当です!」
「本当の本当か?」
「本当の本当の本当です!」

遠い異国から来た若者の眼を覗きこむ。よし。腹をくくった眼だ。吾輩の眼に狂いはない。

「覚悟を決めたんだな?」
「決めました」
「どう決めたんだ?」
「飛行機代がないくらいで命を失うわけではありません」
「自分で答えをみつけたじゃないか」
「え?」
「つまりだな。いつ死んでもよし。臨終はこの瞬間、このたった今、現在のまっただ中にあるということだ」
「はあ…」
「つまりこういうことだ。アマゾンの奥地であろうとアフリカのサバンナのど真ん中であろうとマリアナ海溝の最深部であろうとアネイブル・コントロール中のV-22オスプレイの操縦席であろうとヨハネスブルグのポンテ・アパート42階の4242号室であろうとメイク・ラブの真最中であろうとめしもろくに喰えない貧乏どん底の困窮困憊の日々であろうと最愛の子、最愛のパートナー、最愛の親兄弟を失おうと、いつも、いかなるときにも、いかなる境遇にあろうとも、常に志をもって求めることだ」
「はあ…。でも、なにを求めたらいいんでしょうか?」
「ばかもの! それくらい自分でみつけやがれ!」

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世界の天井でハシゴ酒というのも乙なものだが、飲んだ酒は甲類である。
吾輩と遠い異国から来た若者は杯をかさね、ラデュレのバールのあと3軒ハシゴ酒した。

ベルモケで聴くジャッキー・テラソンの『Sous le ciel de Paris』は吾輩と遠い異国から来た若者の心にしみた。リヴェ・ドゥ・ラ・セーヌ・ア・パリを二人並んで歩き、ポン・デザールとポン・ヌフとポン・ロワイヤルを渡り、巨大な宝石、ポン・アレクサンドル・トワを1往復半して右岸に戻った。


アレクサンドル3世橋の女神たちにナンパされかかる。
4人の女神の前を通りすぎるたびに女神どもがウィンクしてきたが吾輩は華麗にスルーした。ピエール・グラネの女神だけが怒りの形相になり、闘いを挑んできたが、遠い異国から来た若者はその異変にまったく気づかない。暢気なものだ。ピエール・グラネの女神は吾輩がひと睨みするとすごすごと元の場所に戻っていった。


それにつけても、やはり人生はバラ色だ。
アレクサンドル3世橋を1往復半するあいだに吾輩は「本物の一流になれ」を3回言った。遠い異国から来た若者はそのたびに「はい」と言った。「3回目は自分に言ったのだ」と吾輩が言うと、遠い異国から来た若者がまた大声で泣いた。

「泣け泣け。もっと泣け。ここは世界の天井、パリだ。喜びも悲しみも一番最初に降りかかる」

それにしても、吾輩は本当によく人を泣かせる。天下御免の泣かせ屋一代。いまに始まったことではない。世界の天井でもなにひとつ変わらぬ。これもまた至誠一貫のひとつのかたちである。

遠い異国から遥々とやってきた若者よ。薄紅匂う荒野をこそ行け。なにはともあれ、人生はバラ色だ。

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La Vie En Rose - Edith Piaf
La Vie En Rose - Jacqueline François
La Vie En Rose - Sophie Milman
Sous le ciel de Paris - Edith Piaf
Sous le ciel de Paris - Yves Montand
Sous le ciel de Paris - Juliette Gréco
Sous le ciel de Paris - Larry Goldings & Harry Allen
 
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by enzo_morinari | 2014-06-17 06:30 | 流儀と遊戯の王国 | Trackback

牌の痕 ── そして、銀座2丁目の路地裏に朝がきて、男たちはそれぞれの戦場へと帰還した。

 
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泡の時代のまっただ中、1988年の冬。クリスマス・ソングが街のあちこちから聴こえていた。私は血煙を上げながら仕事をしていた。カネはうなるほどあった。いずれ、世界一の大金持ちになってやると思っていた。愚かだった。舞い上がっていた。奢りたかぶっていた。生涯最高最悪にして忘れえぬ麻雀の対戦が迫っていた。

その頃、私は30歳になったばかりの若造だった。怖いもの知らずの小僧っこだった。心をゆるしたごく少数の年上の理解者をのぞけば、だれにも頭を下げなかった。傲岸不遜を絵に描いたような輩だった。周囲はそれをゆるし、私はそれを当然のことと受け取った。嫌なやつも甚だしいといまにして思うが、当時は露ほどの反省もない日々を生き、浮かれ騒いでいた。

麻雀牌に初めて触れたのは7歳の秋。おとなたちのやっている麻雀をひたすら観察し、麻雀のルール、約束事、掟をおぼえた。すぐに麻雀に取り憑かれた。

麻雀卓を囲んだのは麻雀牌に触れてから2ヶ月後の正月である。勝った。勝ちつづけた。最初は笑っていたおとなたちの顔色が少しずつ変わっていき、遂には真顔になった。怒ってわけのわからぬ奇声を発する者まで現れた。

結局、私の圧倒的な一人勝ち。ほかの3人は箱テンだった。ただ勝ったことが嬉しかったのではない。対戦者を完膚なきまでに叩きのめしたことが嬉しかった。私のそのメンタリティは生来のものである。手加減なし。容赦なし。いまもそれは変わっていない。

麻雀は運と記憶力と構成力と観察力のゲームである。麻雀の上手下手を技術力の高低のように言う者が時折いるが、私はその考えを取らない。運が7割。あとの3割は記憶力と配牌から和了までをいかに組み立てていくかという構成力と対戦者の心の動きを見抜く観察力である。運、ツキのないときはいくらやっても勝てない。

私は運気を読むことに長けていた。これも生来のものだ。運、ツキがないと思ったら、どんなに誘われても断る。これは麻雀に限ったことではない。もちろん、運気、潮目を見誤るときはある。最大の誤謬はバブルの時代の引際を見誤ったことである。そして、すべてを失った。

その泡の時代の全盛期。ある画商から麻雀の代打ちを依頼された。私が麻雀が強いことは関係者の間ではつとに知れ渡っていたのだ。儲けは折半。つまり、山分けである。負けた場合も同様である。レートは1000点棒1本が100万円。箱テンを喰らえば3000万円が消えてなくなるというとんでもない麻雀である。だが、強い運気を感じた。私は二つ返事で代打ちを引き受けた。必ず勝てるという確信に近いものがあった。

ゲームは12月23日の昼から始まった。場所は銀座2丁目の裏通り、とある雑居ビルの一室。秘密クラブだった。扉は分厚い鋼鉄製で、何重にもセキュリティが施されていた。豪奢な調度類と快適な空調、そして至れり尽くせりの響応。ソファにはマッサージ機能までが備わっていた。およそ麻雀をやるうえで考えうる最上の設備と環境だった。ここでいままでにいったい何百億のカネが動いたのかと考えると自然に武者震いが起った。

対戦者はいずれも初対面だった。どいつもこいつも顔をてらてらてかてかさせ、ダブル・ブレステッドのスーツを着込み、ヴェルサーチのド派手なネクタイを締め、カルティエやらデュポンやらダンヒルのライターをかちゃかちゃ鳴らしていた。「こんなやつらなら、ひとひねりだ」と私は思った。だが、それは大きなまちがいであったと気づくのに時間はかからなかった。

麻雀は短編小説を紡ぐのに似ている。配牌は書き出し。但し、これには自分の経験、知識、考え、配慮、好き嫌いは及ばない。ただ厳密には、自分の持っている運気、ツキが目の前の14牌乃至は13牌を配すると言えなくもない。幸運か天運か強運か、はたまた悪運か悲運か。それはこの際、問題ではない。この段階の最高の運は和了していること。すなわち、天和である。天和を和了すると命運が尽きて命を失うなどというのは妄言である。麻雀ごときで命を失うような命運なら尽きてしまったほうがよっぽどいい。

次は第1ツモもしくは対戦者の捨て牌による和了である。ツモって和了すれば地和。対戦者の捨て牌で和了すれば人和。ルールにもよるが、いずれも役満貫である。

そして、いよいよ次のフェーズからが麻雀本来の醍醐味である。牌をツモる。手牌の組合せは98,521,596,000通りある。役の高低の別はともかく、98,521,596,000通りの中に和了は存する。すでに手の内にある牌の順列組み合わせ、確率、場に捨てられたそれぞれの牌種、ゲーム全体の流れ、対戦者の顔色、表情、仕草、発言、そして自分の勘の冴え、閃きの確度等々について勘案する。それも短時間のうちに。ここでモタつくとゲーム全体の流れを乱し、自分の運気にも影響を及ぼしかねない。

私は確率論的にもっともツモる確率の高い牌種から順番にプライオリティをつけ、どの牌をツモったらどの牌を捨てるかツモる前に決めておくからツモと同時に打牌を行う。対戦者へのプレッシャーの意味合いもある。もっとも、対戦者のポン、チーによってそれが乱されることもある。これはいたしかたない。なにごとも思うようにはいかないというのは麻雀においても言えることなのだ。そして、和了へ向けて物語はつづく。

臨機応変、変幻自在にストーリーを変えながら和了することができればそれは物語のひとつのオチである。当初に想定したとおりの役で和了できたときの快感はたいへんなものだ。和了がれなければオチなし。どんなに手役がよくても、たとえ、九蓮宝燈を聴牌していても和了できなければオチのない役立たず、駄作以下ということになる。

さて、箱テン3000万円麻雀は静かに幕を開けた。ゲームは対戦者全員気負いもなく、スムーズに進む。つまらぬ鳴きがないのはいい傾向だった。「喰いタンヤオなし。役の完全先付け」ルールが功を奏した格好だ。

私の下家がいきなり清一色をツモ上がり。レイトン・ハウスの専務だった。名うての地上げ屋。顔に覚えはある。1200万円を手にしても眉ひとつ動かさず、涼しい顔をしている。クールだった。

1荘。2荘。3荘。4荘。5荘。6荘。7荘。8荘 ── 。一進一退の攻防がつづいたが、私はジリ貧だった。終局し、集計のたびに数百万円の札束がボストンバッグから消えていく。焦りがなかったといえば嘘になる。だが、必ず勝利できるという確信に微塵も揺らぎはなかった。

「最近の地上げはどうですか?」と株式投資コンサルタント会社の社長が言った。
「ほんなもん、ぼちぼちですわ」と第一不動産の常務が答えた。締まりのない関西弁に虫酸が走る。私がもっとも忌み嫌うタイプの男だった。
「赤坂9丁目の物件、どないしましょ?」
関西弁男がレイトン・ハウス専務に言った。レイトン・ハウス専務はカプリを1本抜き出して火をつけ、深々と吸い込んだ。そして、答えた。
「仕事の話はやめましょう。きょうは遊びにきたのでね」

箱テン3000万の麻雀が遊びか。やはり、クールなやつだ。この男とはいい付き合いができると思った。暗黙のうちに、私とレイトン・ハウス専務VS関西弁男と株屋という対立図式が出来上がった。負けは数千万にのぼっていたが、不思議な闘志が湧いた。どのような戦いにも戦友は必要である。

そして、ついに最終荘。南場最終局、起家。配牌はマンズ気配濃厚。ドラの五萬と南はトイツだ。アンコにすれば、それだけで四翻。ソーズとピンズの端牌が混ざっている。清一を狙うか。ドラをアンコにして南一翻を加えたうま味を活かすか。迷った。大いに迷った。そして、決めた。

打牌、五萬。誰ともなく、「えっ」という嗚咽が洩れる。流局はすでに8度。親である私の卓の右隅には8本の100点棒と12本のリーチ棒。1280万円が無造作に並んでいる。リャン翻縛り。これで、安い手役で上がる道は閉ざされた。

最終章は静かに進んだ。緊張が徐々に高まる。中盤すぎ、それまでの5巡、ツモった牌をすべて牌中に収めていた関西弁男がドラ切り。表情と顔色と仕草から見て、かなりの好手であることがわかる。レイトン・ハウス専務がすかさずチー。これで流れが変わった。

私は勝負に出た。意識は冴え冴えと澄みわたり、すべての流れが見通せた。勝てると思った。勝ったと思った。

待ちに待ったカンドラの九萬が入る。六萬九萬の聴牌。次巡、六萬をツモり、和了。ツモピンフサンショクドラ1。親マン。凡庸きわまりない。和了役と点数と負けている分を差し引きする。負け越し。場を見る。私が喉から手が出るほど欲しいのは九萬だ。

四枚のうち、私の手牌の中に1枚。そして、場に2枚。残るは1枚。どうしても欲しい最後の1枚。牌の山に眼を凝らす。次のツモは海底牌だ。

考える。再度、海底牌に眼を凝らす。考えをめぐらす。だめだ。こんなつまらぬ手役できょうの物語を終わらせるわけにはいかない。こんなことのために困難な戦いをつづけてきたのではない。これは誇りに関わる問題である。

さらに、海底牌を見る。じっと視る。凝視する。見えている部分をすべて視る。そして、私はこの和了を捨てることに決めた。

ゆっくりと和了牌の六萬に指を伸ばし、掴み、打牌した。天の意思も大地の歌も人間の息づかいも河の流れも海のうねりもすべて視えた。心は穏やかで晴れ晴れとしていた。

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「男前リーチ!」

私は打牌と同時に宣言した。対戦者の驚く表情が愉快でならなかった。最後のツモ、最後の九萬にすべてを託す。

場が一気に緊張する。下家のレイトン・ハウス専務は淡々とした表情でツモり、迷うことなく現物牌を捨てる。同じく、株屋も現物打牌。さんざん迷ったあげく、関西弁男は六萬を打牌した。「ドラ4やったのになあ」の女々しく醜い言葉とともに。

そして、そのときはきた。私は海底牌から一刹那さえ眼をそらさず、手を伸ばし、やさしく指先で牌にふれ、その感触を味わった。指先から温かく深く確実なものが流れ込んでくる。眼を閉じ、深く息を吸い込み、吐き出した。牌を持つ腕をゆっくりと振り上げ、振り下ろす。私は牌面を確かめることもなく、人差し指と中指と親指でつまんだ牌を卓上に叩きつけた。

「ツモッ!」

リーチ一発ハイテイツモピンフジュンチャンサンショクイーペーコードラ5。

門前清自摸和海底摸月平和三色一盃口同順純全帯ヤオ九ドラ5(興味のある方はこの和了を計算していただきたい)。さらに、オーラスの変則青天井&倍々ルール。

勝った。対戦者の感嘆の声と深い溜息。逆転勝利。しかも大逆転勝利。結局、私の懐には2億円近いカネが転がり込んだ。もちろん、そのカネも数ヶ月後には泡と消える運命ではあったが。しかし、反省も後悔も一切していない。反省やら後悔は頭のよろしい方々にすべてお任せしてある。私の係ではない。

さて、なぜ私は最後の九萬に賭けて、あえて和了牌である六萬を捨てたのか?

牌の痕である。九萬牌の右上隅についていた微小微細な痕によって、私は私がツモる海底牌が九萬の最後の一枚であることをわかっていたからである。

長く険しい戦いを終え、我々は明け方の銀座に出た。4人とも実に晴れ晴れとした顔をしていた。銀座4丁目の交差点まで歩き、握手を交わし、いつかの再会と再戦を約束した。そして、それぞれの戦場へと帰還した。

再会も再戦も果たされぬまま四半世紀の歳月が過ぎた。そのあいだに泡は弾け、一人は自死、一人は自己破産、レイトン・ハウス専務は国外逃亡中である。私が麻雀卓を囲むことはもはやない。私の傷は癒えた。牌の痕もいつか消える。奇跡は二度あるものではない。

1988年冬、泡の時代のクリスマス・イヴ。和光前で聴きたかったのはナット・キング・コールの『メリー・クリスマス・トゥー・ユー』だったが、聴こえてきたのはビング・クロスビーの歌う『ホワイト・クリスマス』である。ツモったのは白ではないし、雪も積もらなかった。この人生、そうそう思いどおりにはいかないものだ。
 
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by enzo_morinari | 2014-06-12 18:14 | 流儀と遊戯の王国 | Trackback

されど、われらが幻のラ・トゥール・エッフェル

 
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1987年秋。早逝した戦友を追悼するために集ったリラの花影揺れる凱旋門の近くの小さな食堂で、漂えど沈まず、悠々として急ぐ宴の締めくくりに、我々はカルバドスの満たされた杯をあげ、死んだ友を思い、魂の奥深く刻み、誠を捧げてから静かに最後の乾杯をした。そして、固く再会を誓い、それぞれの戦場へと帰還した。

ある者は中東へ。ヨルダン川のほとりへ。ある者はアフリカへ。ヨハネスブルクのポンテシティ・アパートへ。ある者は民族の血で血を洗うボスニア・ヘルツェゴビナへ。希代の独裁者が跋扈するブカレストへ。またある者は西アジアへ。ベドウィンの民の中へ。

あれから四半世紀が経つ。そのあいだに数えきれぬほどの秋やら冬やら春やら夏やらが音も立てずに過ぎていった。再会も果たされぬまま多くの友が逝き、斃れ、少しの友が残った。幻のエッフェル塔はいまもかわらず、我々の前に墓標のように屹立する。友よ ── 。

"Giuseppe Tartini: Trillo del Diavolo (Devil's Trill Sonata)"
Anne-Sophie Mutter, James Levine & Wiener Philharmoniker
 
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by enzo_morinari | 2014-01-30 19:43 | 流儀と遊戯の王国 | Trackback

流儀と遊戯の王国/夢を語ったチューハイの泡に弾けた約束は

 
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夢を語ったチューハイの泡に弾けた約束はあかりの消えた浅草の炬燵ひとつのアパートで。B-T


冬将軍さまが肩で風を切っておでましになり、北風が手加減も容赦もなく強さを増して寒さが身にしみはじめるとビートたけしの『浅草キッド』を繰り返し聴く。そして、酒を飲む。いくらでも飲む。飲むのは熱燗かチューハイかウィスキーと決めている。それもとびきりの安酒を。カネがあろうとなかろうとかわらない。

『浅草キッド』と安酒と人生と。この先も、ずっとかわることはあるまい。酒の肴には湯豆腐か干物かモツの煮込みを喰う。チャラチャラしたものなど金輪際喰わない。喰う必要もなければ喰いたいとも思わない。貧乏人の小倅にはそれがお似合いだ。貧乏人の小倅は死ぬまで貧乏人の小倅だ。それでいい。田舎者が死ぬまで田舎者であるのとおなじ道理だ。オサレでお上品なおディナーやらおランチやらはおセレブさまがたに一切合切おまかせという寸法だ。

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古い友人から大層なものが贈られてきた。『サントリー山崎 35年』だ。サントリーぎらいでも『山崎』だけは好きでよく飲む。そのことを贈り主はちゃんとおぼえていた。持つべきは察しと記憶力のいい友人だ。それと金利なし催促なし天井なしでカネを貸してくれるホトケさま。(悪)

贈り主は泡の時代には敵の陣営に属し、権謀術数の限りをつくして戦った人物だ。仮にMとしておく。五歳年上。大学は同窓。学部学科もおなじ。師匠もおなじ。出自、身の上も酷似していた。吾輩は母一人子一人で育ったが、Mは父子鷹だった。

「手加減なし。容赦なし」という手法もよく似ていた。勝敗についてはいまさら言わない。Mもこれを読んでいるから。Mとの戦いにかぎって言うならば勝敗はほとんど意味を持たない。そしていまや、Mと吾輩は「勝った/負けた」というガキ小僧っ子の季節からはとっくのとうに卒業しているという寸法だ。あとは間尺に合わないことやおのれの流儀、誇り、プリンシプル、筋目、天然自然の理に背くもの、反するもの、踏みにじるもの、そういった輩やことどもと、それこそ百年に一度の「戦い」をするだけだ。それまでは風に吹かれて酒でも飲んでいるくらいがちょうどいい。

泡の時代の戦を経て、吾輩とMはしばしば会うようになり、「物理学における基本粒子」を言いっこしたり、頭突きっこしたり、ギネスを賭けて腕相撲したり、沈黙合戦したり、人文科学と社会科学限定の尻取りをしたり、ダブルアキュートとサーカムフレックスとオゴネクとセディーユとトレマとマクロンとコンマビローとブレーヴェとハーチェクとチルダの「チーム・ダイアクリティカルマーク」を相手に真夜中の新宿御苑で大立ち回りをしたり、人類史とアーサー王伝説と『ダニーボーイ』とクラウゼヴィッツの『戦争論』とジェイムズ・ジョイスとサミュエル・ベケットと「ティム・フィネガンはなぜ屋根から転落し、『フィネガンズ・ウェイク』の "フィネガンズ ”にはなぜアポストロフィーがついていないのか?」について、さらには「クォーク鳥が "クォーク"と3回鳴いた意味」についてちょっとした議論をし、「Life is a Work in Progress」という地点に落下傘なしでいっしょに着地し、最後には握手していい友人になり、ついにはかけがえのない戦友になった。Mがその後、父親の地盤看板鞄を継いで選良となったときは心の底から驚くと同時に嬉しかった。たぶん、あのときの言い争いと頭突きと腕相撲と尻取りと議論が彼の政治意識を目覚めさせ、高め、ついには彼を政治家にさせたのだ。そのことはわれわれの友情に一時的に終止符を打つ結果となり、「二人だけの聖パトリック・デー」の終焉をもたらしたが、なにひとつ悔いはない。

Mと最後に飲んだのは『山崎 SHERRY WOOD 1986』だった。いまはなき銀座8丁目の「BAR いそむら」で。その後、「BAR いそむら」が店じまいし、磯村のおやじの弟子の藤本がおなじ場所で新たに店を始めたからと誘われたが、よんどころのない事情が山積していて行けなかった。

Mよ、どうなんだ? 藤本の店は。縁があればまたいっしょに『山崎 SHERRY WOOD 1986』かグレンリベットの1972年で酔いどれようじゃねえか。

こたびの選挙は残念だったな。まあ、しょうがない。次の次くらいに照準を合わせるのが得策ってもんだ。浪人中の面倒はおれがみる。いままで陽の当たる道ばかりを歩いてきたんだ。一度くらい男芸者の時期があってもいいだろう。そして、腰をすえて本を読み、さらに勉強し、ものを考えろ。宇宙と生命と人生の謎と不思議を解明しろ。おれはすでに3分の2ばかり解明できたぜ。

長い浪人生活、長い闘病生活、長い投獄生活のいずれかを経験するくらいの苦労をしなければ本物になれない」という”電力の鬼”松永安左エ門だか野村証券の奥村綱雄だかの言葉をおれに教えてくれたのは、M、おまえだぜ。

どうあがいても、こたびの選挙で勝つことはできなかった。そして、そのほうがよかったんだ。しばらくは風向きが悪いからな。いまはおれたちが出張っていくときじゃない。雑魚どもに踊るだけ踊らせときゃいい時期だ。そして、最後に獲物と賭け金はすべていただく。それがおれたちのやり方だったろう? 忘れちゃいないよな?

なあ、Mよ。決して焦るんじゃねえぞ。いいな? 賢いおまえのことだ。わかりすぎるくらいわかってるよな。答えなんぞ孕んじゃいないかもしれないが、しばらくは風に吹かれていろよ。

風に吹かれるのはとても気持ちがいいぜ。流れに身をまかせるのもやっぱり気持ちがいい。ときどき立ち止まればいいんだ。ほんの少しだけな。

風に向かったり、流れに逆らって前に進むのなんか百年に一度でいい。本当の孤独は百年に一度味わえばそれでじゅうぶんなんだ。その孤独に出会うまでは風に吹かれたり、風の歌に耳を澄ましたり、星に願いをかけたり、夕焼けに心をふるわせたり、雨粒の数をカウントしたり、虹の彼方に夢を託したり、野うさぎの走りに目を奪われたりしていればいいんだ。そのほうがずっといい。

ときどき立ち止まり、風の歌に耳を澄まそうぜ。そして、風のように生き、いつの日か風になろう。

たった一人で炎の中心に立ちつづけようとする意志があるかぎり、なにもこわいものはない。風向きなんぞいつかかわる。パッとかわる。かえることができる。

これがいまのところのおれがおまえに贈ることができ、贈りたい言葉だ。ありがたく受け取っておきやがれ。ただし、おまえも知るとおり、おれのギャラは高えぜ。隙を見せたら手加減なし容赦なしで尻のけばの果てまで一本残らず抜いちまうというのは昔も今もなにひとつ変わっちゃいないしな。どうだ? すげえだろう? これをして至誠一貫てんだ。おぼえとけ。

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さて、今夜はひとり酒だ。ホッケを一枚炙って、『浅草キッド』を聴きながら『山崎 35年』をちびちび飲るさ。Mよ、おまえも飲れ。酒の肴がわりの思い出やら悔やむ過去ならお互いに手持ちはいくらでもある。

ちっ。妙に湿っぽくなってきやがった。寄る年並ってことかな。時間は残酷だな、Mよ。おっと。あの浅草観音裏の「佐久間」の夜までもがよみがえってきたぜ。

おれとおまえ、二人そろって大敗北を喫して、二人の有り金あわせて四千三百円。だが、二人して大笑いしながらひと皿の芋の煮っころがしと牛スジの煮込みをつつき、安焼酎を2本あけた。見かねた「佐久間」のおふくろが焼酎を1本くれたうえに、あるだけの肴を喰わせてくれた。

帰りがけ、三社様と観音様に二人ならんでお詣りしながら二人そろってぽろぽろ涙がこぼれた。涙と洟水を袖口でごしごしこすって拭いた。傍で見ていた新門の若衆もいっしょになって泣いてやがった。

しみる夜だったなあ。あれからもう20年だ。夢はとっくのとうに砕け散ったが捨てたとは言っちゃいない。おまえもだろう?

Here's looking at you, Kid!


浅草キッド - ビートたけし (1987) 作詞/作曲: ビートたけし

おまえと会った仲見世の 煮込みしかないクジラ屋で
夢を語ったチューハイの 泡に弾けた約束は
あかりの消えた浅草の 炬燵ひとつのアパートで

おなじ背広を初めて買って おなじ形の蝶タイつくり
おなじ靴まで買う金はなく いつも笑いのネタにした
いつか売れると信じてた 客が二人の演芸場で

夢を託した百円を 投げて真面目に拝んでる
顔に浮かんだ幼子の 無垢な心にまた惚れて

一人訪ねたアパートで グラス傾けなつかしむ
そんな時代もあったねと 笑う背中が揺れている

夢は捨てたと言わないで ほかにあてなき二人なのに
夢は捨てたと言わないで ほかに道なき二人なのに

 
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by enzo_morinari | 2013-11-17 01:06 | 流儀と遊戯の王国 | Trackback

流儀と遊戯の王国/ハートのかたち ── ゴクドーを待ちながら

 
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品性と品格を失わないかぎり、困窮も困難も困憊も孤独もやりすごせる。その余のことはすべて過程のひとつにすぎない。E-M-M


上野・稲荷町の交差点に年老いた香具師がいる。名を工藤といい、人々は彼を親しみと畏敬の念をこめてゴクドーと呼んだ。


ゴクドーは永寿病院の正面玄関脇で商売をしている。啖呵売だ。ビール・ケースを台にしたラワン材の合板に下卑た鮮紅色の布をかけた売り台にはレイバン風のサングラスや出自不明の時計や怪しげな置物や猥せつきわまりない玩具などが並べてある。

ゴクドーはいつもボルサリーノのソフト帽をかぶり、チョーク・ストライプの、紺のダブル・ブレステッドのスーツを着ていた。ゴクドーの全身には白粉彫りで桜吹雪の刺青が彫られていて、素面のときにはわからないが、酔うと桜の花びらが薄紅に染まる。

二十歳の頃、ドス一本で反目する暴力団事務所に単身乗り込み、八人を血祭りに上げた武勇は歳月を経てもなお世代を超えて語られつづけた。左頬にあるこめかみから唇の脇にかけた傷跡はそのとき受けたものだが、武勇の壮絶さとあいまってゴクドーに揺らぐことのない迫力をもたらした。

「あんたはインテリゲンチャか?」とドスのきいた声で年老いた香具師はたずねた。
「どうかな。自分でもよくわからない」
「インテリゲンチャは信用できねえ」
「どうして信用できないのさ?」
「インテリゲンチャは平気でうそをつく」
「インテリゲンチャは平気でうそをつく」
「そうだ。きょうのおまんまのためのうそならいいんだけどな。インテリゲンチャのうそはカッコつけるためのうそだ。カッコつけるためのうそくらいカッコわるいものはねえよ。反吐が出る。それはそうと、あんちゃん、これを買いなよ」

年老いた香具師は言い、やつれたボストン・バッグから色鮮やかな箱を取り出す。手に取ってみると、それはUSプレイング・カード社製ティファニー・ブランドの未開封のプレイングカード・セットだった。しかも、最初期の。めったにお目にかかれないしろものだ。

「いくらで買う?」
「1万円」
「殺すぜ」
「こわいな」
「トランプでおれに勝ったらこいつをあんたにくれてやるってのはどうだ?」
「負けたら?」
「負けることを考えて勝負なんかできるかよ」
「負けることも考えなきゃ生きてはいけない」
「うまいことを言うじゃねえか。で、どうする? やるのか? やらないのか? あん?」
「負けたら?」
「有り金をぜんぶ置いてきな」

財布の中身を数える。3万円足らずだが、2週間生き延びるためのなけなしのカネだ。

「わかった。勝負しよう」
「なにで勝負する? ポーカーか? 51か? ジン・ラミーか? ババ抜きか? 七並べは七面倒くせえし、神経衰弱は性に合わねえぜ」

ゴクドーは笑いを噛み殺しながら言った。

「ポーカーで」
「二人でやるポーカーくらいつまらないものはねえが、いいだろう。コールもレイズもフォルドもなし。ブラフはこれっぽっちも意味がない。カードを切り、カードを引く。それだけの勝負だ。1回勝負でいいな?」

うなずくと、ゴクドーは上着の胸ポケットからタリホーの真新しいカードを取り出した。シャッフルしてから売り台の上に並べる。スペード、クラブ、ダイヤ、ハートのエースからキングまで。

スペードは兵士の剣、クラブは農夫の棍棒、ダイヤは銀行家の貨幣、ハートはキリストの聖杯。13枚ずつ4列に並べられたカード。合計52枚。52通りの人生。

カードをシャッフルするゴクドーは瞑想する修行僧のようだ。カードが配られる。手の中で広げる。ハートの9からキングまでがきれいにそろっている。

ストレート・フラッシュ、「1/72193の奇跡」だ。そのままオープンすればまちがいなく勝負には勝てる。しかし、それではいけないように思えた。それはたぶん誇りの類に属する問題だ。あるいは矜持、あるいは名誉、あるいは流儀。

迷う。稀少なティファニーのプレイングカード・セットがただで手に入るチャンスだ。こんなチャンスは二度とない。さらに迷う。

But that's not the shape of my heart

STINGの『Shape of My Heart』のリフの一節が不意に浮かぶ。『LEON』のラスト・シーンがよぎる。

レオンは九死に一生すらもかなわぬ死地に向かって勝負に出た。一人の女の子のために。一輪の花のために。いまだ味わったことのないささやかな幸福のために。

悪徳刑事役のゲイリー・オールドマンが首をコキコキと鳴らす。鍋つかみのブタくんは主人を失おうとしている。

一鉢の鉢植えを抱えて脇目もふらずに歩く少女。レオンは「新しい、もっと別の世界」に向けてゆっくりと歩みをすすめる。

「新しい、もっと別の世界」の扉まであと少し、あと数歩。その刹那、扉は閉じられる。

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Shut Out, Shut Down.

世界が閉じてゆくさなかにレオンの見た血潮はハートの赤だった。凍りついたレオンの心に一瞬垣間見えた色。

私はハートの9を切り、ハートのエースを待つことに決めた。ハートのエースがそろえばもっとも美しくもっとも強いハンド、ロイヤル・ストレート・フラッシュだ。

目の前で確かに起きた「1/72193の奇跡」を捨てて「1/649740の可能性」に賭けることの愚かさはじゅうぶんにわかっている。理屈でわかってはいても私を突き動かすものがあった。私を愚行へと走らせるなにものかが。

ハートの9を切り、カードの山から1枚引く。胸が高まる。心臓が速く強く脈打つ。血がたぎる。

ゴクドーを見る。ゴクドーは迷っている。眉間に深く皺が寄っている。眼を閉じる。眼を開く。あごを引き、うつむく。低く唸る。

ゴクドーを待ちながら、私は考えていた。自分の人生、生きざまを。愚行と蛮行の数々を。人生の貸借対照表を。齢の決算書を。

安全と安定のために頭を下げていれば、「常識」とやらに身を委ねていれば、小利口に立ちまわっていれば、長いものに巻かれていれば、大樹の陰に身を寄せていれば、自分の本当の気持ちとは裏腹の偽りの微笑を浮かべていれば、媚びていれば、おもねり、へつらっていれば、きれいごと・おべんちゃらを並べていれば、語りつくせぬことについて沈黙を守っていれば、「新しい、もっと別の世界」へ足を踏み入れようとしなければ容易に手に入れられていたはずの半分満ち足りて半分幸福で死ぬほど退屈な生活を。裏切りと嫉妬と欲得と怯懦と保身に彩られた者たちの陰湿で陰険で訳知ったような醜悪きわまりもないすまし顔・したり顔を。私とはちがう陣営に巣食う者どものいやしくあさましいほくそ笑みを。スティングは歌う。

それらは私の心のかたちではない

迷った末にゴクドーは2枚切り、2枚引いた。私が引いたのは最弱のカード、クラブの2。ノーペア。ハイカード。役なし。ブタ。

手札を見せる。ゴクドーもほぼ同時に手札を見せた。エースのフォーカードだった。

「あんたはなにを待っていたんだ?」
「ハートのエース」
「おれもだよ。フルハウスを捨ててフォーカードに賭けた。ハートのエースは引いたカードの2枚目だ。あんたが引かなきゃ来なかった。 ── ところで、待っていたのはそれだけか?」
「人生の答えも」
ゴクドーは少し考えてからきっぱりと言った。
「人生に答えなんかねえよ。生まれる。生きる。死ぬ。それだけの話だぜ」
「生きる意味は?」
「そんなものは青臭いインテリゲンチャのたわごとだ」

ゴクドーの言葉が福音や啓示の類に思われた。そのとき、ゴクドーは私が捨てたカードを裏返して眼を見開いた。

「ストレート・フラッシュだったんじゃねえか ── 。たいした極道だぜ」

私は財布から運転免許証とカード類を抜いてゴクドーに差しだした。しかし、ゴクドーは受け取らず、かわりにティファニーのプレイングカード・セットをよこした。

「あんたの勝ちだ。いい勝負だった」

別れ際、ゴクドーは押し殺したような声で私の背中に向かって言った。

「あんたはなにを待っているんだ? あんたはいったいどこに行きたいんだ? あんたは ──」

風がゴクドーの声を掻き消す。ゴクドーの言葉は聴きとれない。それでいい。

ふりかえらずに歩く。先には引き返すことのできない細く暗い一本道がつづいている。

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Sting - Shape of My Heart
 
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by enzo_morinari | 2013-11-15 14:07 | 流儀と遊戯の王国 | Trackback

隠れ家オーディオ

 
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籠もり部屋(隠れ家)ができた。昨夜は籠もり部屋の初日にして徹夜仕事だった。籠もり部屋の存在は誰も知らない。わが人生の同行者も知らない。ポルコロッソにだけは教えた。いまもすぐそばで寝息を立てている。

籠もり部屋を持とうと思い立ったときから籠もり部屋には必要最小限のモノしか置かないことを決めていた。机、椅子、冷蔵庫、グラスと食器類、PC、プリンター、そしてオーディオ・システム。机と椅子は arflex の中古が信じられないような値段で手に入った。冷蔵庫はビールとワインを冷やすために必要だった。1ドアのシンプルなものを確保。PCは Mac mini に決定。

問題はオーディオ・システムだった。CDもLPレコードもなしでいこうと思った。手持ちの音源は可能なかぎりMP3ファイルに変換し、Mac mini にバンドルされている iTunes で聴く。テーマは「総額5万円以内でニア・フィールド・リスニング用のシステムを組むこと」とした。目指すところは「オーディオの箱庭」だ。早い話が「PCオーディオ」である。

壮大さや豪快さや大音量で音のシャワーを浴びることは求めない。「重厚長大よ、さようなら」という方向性。かと言って、軽佻浮薄などでは無論なく、軽妙洒脱への明確な意志を失わないことが肝要である。

増幅器は中国製の小型軽量ディジタル・アンプの中に15000円前後で質の良いパーツを使ったいいものがわずかだがあるので、ディジタル接続を前提としてそれらの中から好みに応じて選んでもいいし、評価の高いNational Semiconductor社製のパワーアンプIC LM3886を搭載したものもやはり15000円を切る価格で入手できる。

ほかには、予算を多少オーバーするがTEACのA-H01(プラスチックの天板はまったくいただけないが)、中国製の朗韵D5も視野に入る。予算をかなりオーバーするし、初期の製品より内部配線の質の低下とパーツのグレード・ダウンが気になるがFlyingmole社のCA-S10も作り込みのよさから検討対象に値する。

2007年3月のリリースで現在はすでに生産完了となっているがSONYのディジタル・アンプのTA-F501はサイズ、デザイン、クオリティ、パフォーマンスともに素晴らしいのでいずれ手に入れようと思う。セコンド・ハンズ乃至は新古品でしか入手できないが。

悩んだのはスピーカーの選定である。仕事机の上に設置するのであるからコンパクトであることは必須条件だが、音質面で妥協することはできない。価格.com や amazon でリサーチし、ネット上にあるめぼしいオーディオ関連のサイトで情報を収集した。そして、YAMAHAのNS-BP200が最終的に残った。最安値で送料込み1ペア1万円を切る価格で入手できた。

アンバランスなようだがケーブル類にはおもいきって10000円ほどを投入した。スピーカー・ケーブルはNS-BP200付属のものは使うべきではない(NS-BP200に限らず、本体に付属しているケーブルは動作確認、初期不良チェックのためのものと考えたほうがいい)。ベルデン、アクロテック、モガミ、オルトフォンなどの中から好みに応じてチョイスする。このとき、ケーブル長は極力短くすることがいい結果につながるというのが経験上の結論だ。

ニア・フィールド・リスニング(NFL)においては機器のデザインや質感も重要である。NS-BP200(BP)は十分に条件を満たしている。「ウッドコーン」が売りのVICTOR SX-WD30も候補だったが「予算総額5万円」のテーマから考えて除外。最後にNS-BP200(BP)が残った。

NS-BP200は中低域再生の重要な要素である「容量」を稼ぐために深型のエンクロージャーを採用している。幅と高さに比べて奥行きが深い。本機は「非防磁型」なのでTV・ディスプレイ等の近くに設置するときは対策が必要な場合がある。

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音の第一印象はフラットでニュートラル。上品、上質。育ちの良さのようなものを感じる。音像定位は良好。低域はたっぷりとし、引き締まっている。スネア・ドラム、ハイ・ハット。金属と木が衝突したときのリアルな再現はほぼ満足。ピアノの粒立ち良好。

特筆すべきは中低域だ。やわらかな質感。ジャズ・ヴォーカルなどでの中域は表現力、質感ともに見事。アル・ディ・メオラとパコ・デ・ルシアの『Mediterranean Sundance』における火の出るようなギター・ファイトを臨場感たっぷりに再現したのには正直驚いた。弦の振動音だけではなく、胴体が鳴り響き、唸るさまをまざまざと聴き取ることができた。

死を目前にしたスタン・ゲッツがコペンハーゲンの「カフェ・モンマルトル」で行ったライブ盤中の『First Song』の再現は息をのむほどの生々しさで、3ヶ月後に死を迎えるスタン・ゲッツの凄絶なプレイと心の痛みが伝わり、不覚にも落涙を禁じえないほどであった。スタン・ゲッツは『First Song』で人々に彼のラスト・ソングを送り、別れを告げたのだということがこのとき初めてわかった。

1日5時間、2週間ほどでエージングはほぼ完了する。音の深み、響き、輝き、解像度、音場の広がりが明らかに向上する。決してじゃじゃ馬ではない。育ちのいいお坊ちゃまにして優等生である。

オーディオ機器の中には数ヶ月、数年、場合によってはそれ以上の年月をエージングにかけなければ本来のパフォーマンスを発揮しないものもある。このあたりがオーディオの難しさであり、醍醐味でもあるのだが、本機に限ってはエージングに関する難しさはないように思える。NS-BP200を使いこなすのはきわめて容易である。オーディオ・ルーキーからオーディオの古強者までを納得させうる実力の持ち主であると言える。

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音の濁りの原因のひとつである「不要共振」を防ぐためにもスピーカー本体とスピーカー設置面(床面)との間に適度な距離を確保することはセッティング上の絶対条件である。NS-BP200には3点支持の硬質な樹脂製脚部が備わっているが、さらに質のいいインシュレーターを使うことで確実に透明感と解像度が増し、低域の腰がすわる。

キャノンボール・アダレイの as が実に深々と朗々と鳴り響く。低域は解像度にやや物足りなさがあるものの、不足はない。高域は情報量がやや少ないという印象。W.マルサリスがハイノートをヒットするところではおぼつかないところがあったが、ペトルチアーニが ff をアタックする場面ではピアノが実は凶暴な楽器なのだということを思い知らされるような表現力を持ってもいる。

分解能及び原音忠実性は合格点を与えることができる。音像と音場感は明快にして明確で3次元的。エッジはきつくなく聴きやすい。音の厚みはそれほどない。温かみ、ヴォーカルの艶っぽさは充分に感じられる。

躍動感、伸びやかさ、溌剌さ、鮮烈さはないがバランスはいい。響きは適度。弦楽器もそつなくこなすが、残念ながら、「チェコ・フィルの松脂の飛び散る音」を聴きたい方に満足を与えるレベルには達していない。そういった御仁はそもそもPCオーディオには手を出さず、ピュア・オーディオに専念することをおすすめする。

金管楽器は力強さに欠けるが、無難な鳴らし方だ。木管楽器はまろやかで申し分なし。聞き惚れる。打込み系の表現は迫力不足を否めない。全体的にウォームすぎるきらいがあるが、これは開発者がチューニングに際してあえて意図したところだろう。

音場感は十分にあり、音像の定位、解像度、原音忠実性など、重要な評価ポイントにこれと言って大きな欠点は見あたらない。温かみと爽やかさを兼ね備えている。ただし、演奏者たちはクオリティを維持したままとはいえ一様にサイズ・ダウンする。それがニア・フィールド・リスニングの妙味でもあり、限界でもあるのだろう。庭園ではなく箱庭、森林ではなく盆栽という趣向をたのしむ心意気、心映えを持てるか否かということだ。

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ブラインド・テストでNS-BP200の価格を正確に言い当てられる者は皆無だろう。それくらいNS-BP200のコスト・パフォーマンスは高い。本機はYAMAHAの「戦略商品」のひとつであろうからコスト・パフォーマンスが高いのは当然だが、そのことを差し引いても桁外れにコスト・パフォーマンスが高い。誤解を承知で言えば、「なにか裏があるのではないか?」と下種の勘繰りをしてしまうほどである。

NS-BP200は1ランクどころか、2ランク3ランク上、システムやケーブル類の組み合わせ、セッティングいかんによってはさらに上の価格帯に属する機種とも互角の勝負ができるように思える。実際、大手メーカーの10万円を超える価格帯の製品の中には(当のYAMAHAのスピーカーの中にすら)本機の足元にも及ばないようなレベルのものが複数存在する。

2010年秋のデビューにもかかわらずほとんど値崩れを起こしていないことがNS-BP200の実力の証でもあるだろう。売れていることに便乗して無闇・無意味に後継機種を連発する「野蛮」「不毛」に手を染めないYAMAHAの姿勢にも好感が持てる。YAMAHAの意地、良心を垣間見る思いがする。

LE-8T-2ではなく、あくまでもLE-8Tというスタンス。フェライトではなく、なにがなんでもアルニコという姿勢、節度、一徹。かつての心あるオーディオ・ファイルたちがNS-BP200についていかなる感想を持つかという興味が湧く。

YAMAHAにはまちがっても「新素材採用」などと銘打った大仰・大袈裟・大上段に構えただけの上っ面、上っ調子な愚行は犯してもらいたくないものだ。ウーファーのコーンを白くされてもこちらは鼻白むだけである。

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NS-BP200はピュア・オーディオ、ハイエンド・オーディオのベテランがメイン・システムとは別に、PCを使うシーン、いわゆる「PCオーディオ」を組む際にシステムの中核とすることができるだろう。

蛇足であり、メーカー保証の対象外となる話だが、内部配線、出力端子、吸音材をカスタマイズするという楽しみ方もある。開発者が意図したチューニングの方向性とは別のオリジナル・チューニング、カスタマイズによって「世界にただ1台のNS-BP200」、NS-BP200(改)をつくることに専念すれば、愚にもつかぬ政治屋どもやあさましい木っ端役人どもにいいように弄ばれている憂さを一時でも忘れられるかもしれない。

マグネット着脱式のサランネットは弦楽器の形状を模したものらしいがまったくいただけない。使わないほうがスマート&クールだ。ピアノ・フィニッシュ調の仕上げは埃や手あかなどの汚れが目立つが、こまめにメンテナンスしてやればさらに愛着が湧くだろう。

「Made in China」ではなく、「Made in Indonesia」。このことは評価ポイントである。ちなみに、NS-BP200の上位機種にNS-B750があるが、こちらも素晴らしいパフォーマンスを発揮する。拙宅の映画鑑賞用音響機器の主役である。筆者にオーディオにおける重厚長大路線からの脱却を決意させたスピーカーだ。実売価格30000円(1本)ほどで入手可能である。筆者がオーディオという魔道に血道を上げていた1980年代ならNS-B750のパフォーマンスとクオリティと作り込みのスピーカーは1ペアで20万円代後半の値づけがされていたはずだ。「年々歳々花相似たり、歳々年々オーディオ同じからず」とでもいうことか? NS-B750についてもいずれ触れる機会があるだろう。

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その昔、CDを中心としたディジタル・デバイスが世の中を席巻しはじめたとき、ある高名なオーディオ・ファイルは「いずれ、大脳辺縁系にデバイスを直付けするような時代がやってくる」と言って嘆いていたが、iPodの出現によってそれは現実味を帯びてきていると感じる。CDすらも「時代遅れ」になりつつある。

あらゆる「形あるもの」は0と1のディジタル・データに変換され、電子の海を縦横に、自由自在に泳ぎまわる世界。人はそれを極楽浄土と言い、天国と呼ぶかもしれない。そのときに再生され、鳴り響くのはいったいどのような音楽、音なのか? 深夜、人々が寝静まり、世界が深い闇の底に沈んだ時分、iTunesによって再生された今は亡きジャン・ミシェル・ミゴーの畢生の大作、『死と再生』をNS-BP200で聴きながら考えるのも悪くない。

くだんのオーディオ・ファイルは米寿をとうに過ぎたいまも矍鑠とし、ケンリック・サウンド社によって徹底的にレストアされたJBLパラゴンとマッキントッシュMC275と光悦でベニー・グッドマンの『Memories of You』のEP盤を聴いていると風の便りがあった。いつの日か、老オーディオ・ファイルのシステムで『風の歌』を聴くことができたらいい。そのときはNS-BP200を持参しようと思う。

陽もすっかり落ちた。もうひと仕事ふた仕事片づけたあとは、ポルコロッソを相手にナイト・キャップを何杯かひっかけて長い夜をやりすごすことにしよう。iTunesのスマート・プレイリストの中から『あなたと夜と音楽と』をチョイスしてPlay it. 1曲目は ”マンハッタンの吐息” 、リー・ワイリーの『Night in Manhattan』だ。

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(リファレンス機材)
System1: Linn CD12→Cardas Golden Reference(1.0m R/L)→Krell KSL→Cardas Golden Reference(1.0m R/L)→McIntosh MC275(×2 バイアンプ駆動)→Esoteric 7N-S20000 MEXCEL(2.0m R/L)→Sonus Faber STRADIVARI Homage

System2: Krell CD-DSP→Ortofon Reference(1.0m R/L)→A&M AIR TIGHT ATC-1 LIMITED→Ortofon Reference(1.0m R/L)→A&M AIR TIGHT ATM-2→Ortofon SPK-4500 SILVER(1.2m R/L)→Acoustic Energy AE2

System3: SONY CDP-X5000→Ortofon Reference(1.0m R/L)→SONY TA-F5000→Ortofon SPK-4500 SILVER(1.2m R/L)→YAMAHA NS-B750(BP)

System4: Mac mini(Mid 2011)→Ortofon Reference 6NX-MPR30/M-RCA(1.2m)→ 朗韵D5(TAS 5162) →MOGAMI 2804(0.7m R/L)→YAMAHA NS-BP200(BP)

註: System1、System2、System3にはそれぞれYAMAHA NS-BP200(BP)を接続しての視聴も併せて行った。再生機器としてMac mini(Mid 2011)を用い、iTunesでの再生も同時に行った(音源のレート: 256kbps/44.100kHz)。なお、System4については、Mac mini(Mid 2011)に換えてLinn CD12によるCD再生の視聴も行っている。System4が本稿に即したシステムだが、朗韵D5のほかにNational Semiconductor社製のパワーアンプIC LM3886を搭載したYS1やTripath社製のディジタル・アンプIC TK2050が搭載された機種という選択肢もある。Mac mini(Mid 2011)はオプティカルによるディジタル出力が可能なので、ディジタル・アンプとディジタル接続したときにいかなるパフォーマンスを見せるかは興味ある課題のひとつである。問題はまともな mini-TOSLINK→TOSLINKケーブルがこの世に存在しないことだ。自作する以外に手がないのが現状である。「予算総額5万円」の中にMac mini(Mid 2011)は含まれていない。


(リファレンス音源)
Grover Washington, Jr./Wine Light
Pat Metheny & Lyle Mays/As Falls Wichita, So Falls Wichita Fall
Pat Metheny/Bright Size Life
Pat Metheny Group/Travels
Pat Metheny & Charlie Haden/Beyond the Missouri Sky(Short Stories)
Al Di Meola/Mediterranean Sundance
Michael Hedges/Aerial Boundaries
Lee Ritenour/Wes Bound
Julian "Cannonball" Adderley/Somethin' Else
Michel Petrucciani/Live At The Village Vanguard
Michel Petrucciani & Niels-Henning Ørsted Pedersen/Petrucciani & NHØP
Keith Jarrett & Michara Petri/J.S. Bach: Six Sonatas
Keith Jarrett/The Melody At Night, With You
Eliane Elias/Something for You
Miles Davis/TUTU
Miles Davis/Doo-Bop
Stan Getz & Kenny Barron/People Time(Live at Café Montmartre)
Wynton Marsalis /Standards & Ballads
Chris Botti/Night Sessions
Marcus Miller/M2
Lee Wiley/Night in Manhattan
Sarah Vaughan/Crazy and Mixed Up
Rod Stewart/The Great American Songbook
Itzhak Perlman + Oscar Peterson/Side By Side
Itzhak Perlman/Theme from Schindler's List
Wynton Marsalis & Philharmonia Orchestra of London/Tomasi: Concerto for Trumpet & Orchestra
Willem Mengelberg - Concertgebouw Orchestra Amsterdam/St. Matthew Passion BWV 244
Karl Böhm - Vienna Philharmonic/W.A. Mozart: Requiem
Mstislav Rostropovich/J.S. Bach: Cello Suites
Andrés Segovia & John Williams/Segovia and Williams: Guitar Virtuosos Play Bach
Jean-Michel Migaux/Mort et Reproduction
渡辺香津美/DOGATANA
ゴンチチ/ANOTHER MOOD
ゴンチチ/脇役であるとも知らずに
ゴンチチ /アンダーソンの庭
吉田美奈子/Extreme Beauty
松任谷由実/昨晩お会いしましょう
 
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by enzo_morinari | 2013-11-04 17:24 | 流儀と遊戯の王国 | Trackback

チキンライス世界の松本人志とハードボイルド・ワンダーランド

 
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クリスマスが近くなるとできたてのチキンライスの酸っぱい湯気の向こう側に見え隠れするまだ若く美しい母親の笑顔を思い出し、『チキンライス』を聴く。『チキンライス』はいい歌だ。デビュー当時の宇多田ヒカルくらいいい。たけしの『浅草キッド』に迫る。

『チキンライス』を初めて聴いたときは自分が経験してきたことと驚くほどに酷似していたのでびっくりした。親の顔色をうかがい、懐具合を気づかって一番安いメニューのチキンライスを注文するところ。「貧乏自慢ですか」と無言で問うおっちょこちょいの愚か者に対して抱く諦めと悲しみがないまぜになった複雑な思い。いまはなき赤坂プリンスのスィーツで「やっぱり七面鳥よりチキンライスがいいや」というところ。そして、「最後は笑いにかえるから」というところ。

『チキンライス』を聴いて松本人志という男と真っ正面から向かい合おうと思った。入手可能な松本人志の本やら雑誌のインタビュー記事やらをすべて読み、考えた。結論は、「松本人志は本物だ」ということだった。

松本人志はきわめつきのハードボイルドだ。「笑い」の質のエキセントリックさに気を取られていると松本人志の本質を見失う。松本人志の根っこ、基礎、支えているもの、ルサンチマン、闇、そして影。松本人志を松本人志たらしめているもの。それは、貧乏・貧困であり、不全感だ。

松本人志は一見すると斜に構えているようだがとんでもない。松本人志は人間、社会、世界と真っ正面から向き合っている。真っ正面から向き合っていなければあの種類の笑いを生み出すことはできない。照れ隠しに「斜に構えている」ように見せているだけだ。

きょうび、どいつもこいつもやに下がり、ふやけたやつばかりだが、松本人志はとんがっている。切っ先鋭い。結婚し、こどもができて落ちついたようにみられているがそれは表面上のことだろう。ふてぶてしい面構えは以前となにも変わっちゃいない。

テレビ受像機の画面をときどきぶっ叩いてやることもあるくらいのふてぶてしい面構え。そこがまたいい。クチビル・ハマーなど松本人志に比べたらまだまだどこにでもいるあんちゃんにすぎない。かわいいものだ。

松本人志がなにかに集中してぐっと視線を止めたときには背筋が凍りつくような凄味がある。あの松本人志の眼のたぐい、眼の奥に秘めているもの、宿しているものは長い人生でもそうそうお目にかかれるものではない。松本人志もめったに人前ではみせない。意識してそうしているのかどうかはわからない。あの眼はまちがいなく「地獄」をみた眼だ。いや、「地獄」に堕ちること、「地獄」に引きずり込まれることを覚悟し、腹をくくったうえで「地獄」の尻の穴まで観察し、見届けようとした眼である。地獄を観察する者。あるいは、地獄を計測する者。それが松本人志だ。

過去に二度だけ松本人志の「あの眼」とおなじ眼に遭遇したことがある。「いい死に場所」と「死ぬには手頃な日」を探して「ヤバイ場所」をほっつき歩いていた頃だ。一人はペルーで。反政府ゲリラ組織の兵士。もう一人は開高健。二度ともおそろしかった。背筋が強い痛みをともなって凍りついた。もうあのたぐいの眼にお目にかかることはないだろうと思っていたらテレビ受像機の画面から松本人志に見据えられた。以前とおなじように背筋が凍りついた。

松本人志の独創と発想力と即興は瞠目に値する。たけしと松本人志の対談を読めば松本人志の「精神性」の一端を垣間みることができる。『遺書』も「松本人志解読」の必読書である。

松本人志にはいずれ、保身と利権の確保に血道を上げる愚劣卑劣な木っ端役人どもや既得権益の上にあぐらをかいている守旧派守銭奴どもの牙城に風穴をあけるくらいの爆弾を炸裂させてほしいものだ。

人生という厄介なゲームに土塊ひとつ担保提供せぬまま恥知らずにもローリスク・ローリターンの定額貯金に精を出す善人づらした小市民や醜悪きわまりもない親和欲求に翻弄されるボンクラや臆面もなく純朴偽装した能天気や暮らし自慢、ライフ・スタイル自慢にうつつをぬかして日も夜もあけぬ極楽とんぼや裏切りと嫉妬と欲得と保身に彩られた者たちに回復不能な一撃を加えることがお茶の子さいさいになるくらいのごっつええ感じでガキ帝国なのを。

もともと、上っ調子な「笑い」にはまったく興味がなかった。鬱屈したもの、ルサンチマン、闇、影を誰にも触れることのできない敏感でナイーヴで脆い、もっとも奥まったところに隠し持ちながら、それを「笑い」にかえる。そのような「笑い」に魅かれた。萩本欽一やらドリフターズやらとんねるずやらのたぐいのなにがおもしろいのかこれっぽっちも理解できなかった。不思議でしかたなかった。いまの「お笑い芸人」と呼ばれている若造どものあらかたについても同じだ。チュートリアルの徳井とブラマヨの吉田には少し注目している。あとはひと山いくらという括りでじゅうぶんだ。徳井と吉田はTwitterでフォローして、ときどき「毒舌」をかましているが、いまのところ反応はない。まあ、縁がないということだろう。

できるならば貧乏なんぞしないほうがいいに決まっている。好き好んで貧乏になるやつなどいない。いるはずがない。こどもの頃の貧乏、経済的な不遇はたいていの場合、一生ついてまわる。そして、さらに悪いことに貧乏は世代交代しながら拡大再生産されていく。貧乏人のこどもは親よりさらに貧乏になり、そのまたこどもはもっと貧乏になる。石川啄木の依存性向と甘っちょろさはきらいだが、「働けど働けどわが暮らし楽にならず」というのは人生、社会の実相の一面を言いあらわしてはいる。

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小学校の6年間、ただの一度も給食費を払えぬような貧乏の中に育ったので暮らし自慢、ライフ・スタイル自慢に日も夜もないおセレブさまがたの極楽とんぼぶりに接すると虫酸が走りまくる。

ゼニカネにはなにひとつ不自由などなく、周囲には鼻高々の暮らしっぷりなんだろうが、吾輩は彼らの中に「いやしさ、あさましさ、さもしさ」のにおいをどうしても嗅ぎ取ってしまう。「○○でランチ♪」なんぞというテクストを目にすると8分音符を分解して蝦蟇のオタマジャクシに変えてから、ネウマ記譜法もタブラチュア記譜法もいっさい無視してダ・カーポかフェルマータかダル・セーニョに全休符つけあわせてデルフォイ神殿に生け贄としてお供えしてやりたくなる。

吾輩が長いあいだ喰らってきた昼めしは「日の丸弁当に玉子焼きが一枚のっかったドカベン」だ。うまかった。腹いっぱいになった。お品がないか? 野蛮か? おセレブさまがたの暮らしや「おランチ」や「午後のお茶の会」や「オサレなカフェ」が上品で文化的であるというなら、品も文化も糞食らえだ。

おセレブさまがたには百万回に一回でいいから「すべらない話」を聞かせてもらいたいものだ。あんたたち、気づいているかどうか知らんが、いつも滑ってるよ。それもレベルがすごく低いところで大滑り上滑りだ。豪勢な「おランチ」を画像入りで見せられ、読まされても、肝心の料理の味も香りも盛りつけのセンスもサーヴィングのよさもまったく伝わってこない。画像はどれもこれも雑誌かネット上のどこかで見たことがあるような構図ばかりで、まるで観光客の客足が絶えて久しい寂れた観光地の土産物屋で売っている絵葉書みたいだしな。

人生も世界もおセレブさまがた乃至はその追従者が考えているほど単純でもハッピーにも出来あがってはいない。「おランチ」やら「午後のお茶の会」やら「オサレなカフェ」やらディズニーランドやらスカイツリーやらで幸福と「いい人生」が手に入るなら神さまも苦労しない。ハッピー・クリスマスもメリー・クリスマスもけっこうだが、上っ調子上滑りに街中でお祭り騒ぎをやられるのはもうたくさんだ。

「貧乏」「貧困」というのはひとつのクライシス・モーメントだ。クライシス・モーメントの季節をすごしたことのない者は例外なく向上心がない。恥知らずである。恥知らずは恥を知らぬがゆえにためらいなく人を裏切り、手のひらをかえす。ちょっとした風向きの加減で経済的な不遇をかこっている者をこそ吾輩はわが友とする。

カネがないならカネのあるほうが出せばいい。そろってカネがないならいっしょに泣けばいいだけの話である。貸したカネを返さずに消息を絶った者がいたらそのことによって彼が一瞬でも救われたのであると思えばいい。しかし、恥を知らぬ輩に飲まされた煮え湯だけは何十年経とうと煮え湯のまま、はらわたの煮えくりかえり具合は当時のままだ。そして、吾輩は恥知らずとはどのようなしがらみ、事情があれ、たとえ大きな仕事をもたらすとしても、いっさい縁を持たない。いずれ、煮え湯を飲まされ、はらわたが煮えくりかえりつづけることを知っているからだ。

恥知らずは一度二度三度どころか何度でも恥知らずを繰り返す。もはや「恥知らず病」と呼びたくなるほどだ。そして、「住宅ローン」とやらを完済したことを得意げ自慢げに得々としてほざく愚か者はゴマンといる。人生という一筋縄ではいかないゲームで、土塊ひとつ担保提供していないくせに分け前だけは一丁前に要求した挙げ句、裏では郵便局の定額貯金に精を出すいやしさあさましささもしさもちょくちょく目にする。喪もあけぬうちから近所の狒狒爺/狒狒婆と御懇ろに及ぶ不逞の輩が掃いて捨てるほどいる。

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おセレブさんにまつわるある驚愕のシーン。あれは泡の徒花が末期の狂い咲きをしている最中のことだ。場所は銀座。RESTAURANT L'OSIER だ。おねいちゃんのたってのリクエストに「おまえのおごりならつきあってやってもよろしい」と申し渡して、いやいやながら待ち合わせ場所の銀座4丁目交差点和光前に出向いた。

ロオジェの料理がうまいのは十分に知っている。おそらく、その時点で亡くなった高橋徳男の「アピシウス」、広尾の「RESTAUTANT Hiramatsu」、ムッシュ勝又登の「オーベルジュ・オー・ミラドー」と並んで、日本一うまいフランス料理が喰える店だった。何年も行っていないがジャック・ボリーの舌、味蕾、嗅覚、視覚、聴覚が劣化していなければ料理のクオリティは超一級を維持しているはずだ。リニューアル・オープンのときには行ってみたいものだ(と思ったら、ジャック・ボリーの野郎、ロオジェにアデューしてやがるじゃねえか。終わったな、ロオジェ)。サーヴィングのレベルもトップ・クラス。ジャック・ボリーは鼻持ちならなくて好きではなかったが、人物を喰うわけではない。あくまでも料理を喰うんだからシェフがたとえ福島瑞穂や勝間和代や田嶋陽子や辻元清美や秋元康や石橋貴明やAKB48でも料理がうまけりゃ文句はない。

おねいちゃんは待ち合わせの定刻よりだいぶ前に和光前に来ていた様子で、吾輩が本当に来るかどうか不安そうに見えた。吾輩はあえて中央通り反対側の三越前に車を迂回させた。そして、車の中からおねいちゃんの様子をしばし観察することにした。落ちつきなくきょろきょろと右に左に顔を振っている。吾輩を探しているんだろう。しきりに腕時計を見ている。

待ち合わせ時刻10分前。苛立たしげに左足の靴のかかとを地面に打ちつけてやがる。車から降り、腕組みをし、仁王立ちで和光方向を見る。おねいちゃん、すぐに気がつく。満面の笑顔。信号がまだ青になっていないというのに小走りで吾輩に向かってくる。

「もう! いらっしゃらないかと思いました!」
「もう? 牛? 偶蹄目?」
「ちーがーいーまーすっ!」
「いや、それが急用ができちゃってだな、きょうは」と言ったところでおねいちゃんの顔がみるみる歪み、崩れていく。「おいおい。冗談だよ。人前で泣いていい街は大阪だけだぜ」

吾輩が言うとおねいちゃんは吾輩の胸に顔をうずめて泣き出す。おねいちゃんをなんとか慰め、なだめ、銀座7丁目の資生堂をめざす。おねいちゃんは指導どおり吾輩の左側やや後ろを歩く。そして、とても自然に巧みに吾輩の左肘の少し上あたりに手を添える。腕を組むような下品なことはしないようにとの吾輩の指導をきちんと守っている。上出来上出来。「このおねいちゃん、もしから当たりかもしれないな」とさえ思う。「嫁にしてやるか」とも思う。このおねいちゃんこそが虹子だ。

食後、2杯目のエスプレッソ・ダブルを飲んでいるときに生涯にわたって忘れえぬおセレブさんはやってきた。Dior POISON の地獄の大釜で煮立てた馬房のような毒々しいにおいをふりまきながら。藤色のヴェルサーチのスーツを着て髪をキンキラキンに染めた親子ほども齢の離れた若い男を従えて。野村沙知代だった。まちがってもチキンライスの湯気の向こうには見たくない御面相だった。
 
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by enzo_morinari | 2013-10-31 19:43 | 流儀と遊戯の王国 | Trackback

夢破れ、ふけゆく秋の夜の旅の空に一人わびしき思いをかかえている戦友Hへ

 
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メール読んだ。三回読みかえした。四回目の途中で読むのをやめた。おまえのテクストは「てにをは」「句読点」「文法」はまちがいだらけで小学生レベルだし、「誤字脱字」はめまいがするほどだったが、おまえの言いたいこと、思い、気持ちはよくわかった。正直に言うならばとても心にしみた。

そうか。旅の空にあるのか。齢を重ね、夢破れ、一人わびしき思いをかかえて。おまえは今、ふけゆく秋の夜の旅の空になにを見ているんだろうな。おまえの文面からはいたずらに齢を重ねたのではないことがはっきりと読み取れた。そのことには敬意をもってのぞまなければなるまい。

25年ぶりの「再会」がインターネット/メールとはいかにも出来すぎだが、時代の趨勢ということでもあるんだろう。おれはこの25年のあいだにおまえになにがあり、おまえがなにを経験してなにを感じ、なにを考えたかにはいささかも興味がない。それらのことについては悪いがほかを当たってくれ。おれの係ではない。竹馬の頃、飼育係として天才的な手腕を発揮していたおまえには変わることなき親愛を持ってはいるがね。ただし、「いきものがかり」とかいう小便臭く青っ洟垂らしたような尻の青みもとれぬ青二才の小僧と小娘は大きらいだ。

おれが知りたいのはおまえがこの25年のあいだ、炎の中心にいたかどうかということだけだ。炎の中心にあって尻込みしなかったかどうか。それだけに興味がある。結果などは時間が前後すればいくらでも評価、価値は変わる。時代などパッと変わるということだ。おれ自身がそう信じてきょうまで生きざまをさらしてきたということでもあるがね。

残るのはやったことだけだ。結論でも結果でも答えでもない。やったことだけが残り、やらなかったことは無惨な後悔に変わり果てる。冷厳にして冷徹。おれは沈香も焚かず屁も放らぬような腰抜け腑抜けに用はない。おれは行為者/行動者だけとおなじ陣営に拠す。それは昔も今も変わっていない。

おれはこのところ、「文部省唱歌」と「童謡」と「讃美歌」とネイティブ・アメリカンの音楽とケルト・ミュージックばかり聴いている。聴きながら、ときどき、おまえや死んだやつらのことを考える。『故郷』なんぞを聴いていると、小鮒を釣ったことも兎を追ったこともないのに、それらがまるで本当に経験したかたのごとくに薄桃色の靄がかかったような幻の光景として思い浮かんできさえする。おれも齢をとったものだ。冥土の旅のマイル・ストーンをいくつ越えてきたのかについては、もう随分昔に数えるのをやめた。

まったく馬鹿げて子供じみているけれども、じきに日本におさらばしてアメリカに渡り、モヒカン族の酋長になろうなどと考えることがある。ラスト・モヒカン、最後のモヒカン族になるためだ。そして、死ぬ。ボリビア軍に真っ正面から突っ込んでいったブッチ・キャシディとサンダンス・キッドのようにな。考えただけで鳥肌が立ち、笑いがこみあげてくるぜ。

夢破れ、ふけゆく秋の夜の旅の空に一人わびしき思いをかかえている戦友であるおまえに犬童球渓の名作唱歌『旅愁』を贈る。鮫島有美子の歌唱だ。黒人霊歌の『深い河』もともに。しみわたる。しみる秋の夜ふけにこそふさわしい。

『旅愁』は日本では歌い継がれているが、原曲の" Dreaming of Home and Mother (家と母を夢見て) "は本国のアメリカではほとんど忘れられてしまったという。実に残念なことだ。

夢破れて山河あり。夢はどれもこれも粉々に砕け散ったが、捨てたとは言っちゃいない。わが戦友よ、おまえもだろう?

深く暗い河であっても渡れ。渡った先には白木蓮の馨る父と母と兄弟たちの待つ故郷、約束の地がある。おれもともに渡る。会うことはできずとも、ともにある。


旅愁
作詞:犬童球渓
作曲:John P. Ordway

ふけゆく秋の夜 旅の空の
わびしき思いに一人悩む
恋しやふるさと なつかし父母
夢路にたどるは 故郷(さと)の家路
ふけゆく秋の夜 旅の空の
わびしき思いに一人悩む

窓うつ嵐に夢も破れ
遥けき彼方に心迷う
恋しやふるさと なつかし父母
思いに浮かぶは杜の梢
窓うつ嵐に夢も破れ
遥けき彼方に心迷う


旅愁 - 鮫島有美子
Deep River - Mahalia Jackson
深い河 - Norman Luboff Choir; Stokowski Conducting (Inspiration)
 
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by enzo_morinari | 2013-10-26 23:06 | 流儀と遊戯の王国 | Trackback

流儀と遊戯の王国#15 扇子とセンスとパラダイムとエピステーメーと蘭奢待の女

 
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 京都嵯峨野に工房を構える孤高の扇子職人の手になる渋扇のいくたりかを入手した。七寸五分の渋扇。扇骨は本煤竹、扇面は本手漉きの嵯峨野和紙、かなめは錫、手描きの景色、「矯め皺」の景色。いずれも素晴らしい。文句のつけようがない。溜息が出るほどだ。本伽羅が実にほどよく薫きこめてある。扇ぐと仄かで品のよい甘い香りをともなって清風が起こる。蘭奢待ほどではないが濃厚濃密さが奥のほうにひっそりとある伽羅。
 おもしろいので、ガジンに目利き、見立てをさせようと思った。ガジンは鼻が利くだけでなく、審美眼、観察力、鑑識に秀でているので、果たしてガジンがいかような目利き、見立てをするものか、心が躍り、浮き立った。
 早速、電話する。呼び出し音3回目でガジンは電話に出た。めずらしいことだ。よほど心の塩梅がよいとみえる。事の成りゆきを話すと、ガジンは愛想もへったくれもなく、ぶっきら棒に「今から行く」とだけ言って電話を切った。来たら、薪雑把でぶっ叩いたうえに、雑袍に包んで外縁川に放りこんでやる。

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「こりゃ、すごい。無駄も華美も思わせぶりもなにもない。なにもないというところがすごい。無の美。あるいは捨象、切り捨ての美だ」
「ほほう。では、こいつが中国製の100円ショプものだと言ったらどうする?」
「それはないね。絶対にない。中国製の100円ショプものに伽羅が薫きこめてある道理がない」
「ところが ──」
「ところが?」
「中国製の100円ショプものだ」
「うそだろう?」
「うそだ」
「やっぱり」
「さて、せっかく遠路はるばる来たんだ。ここからどこかへ着地しようじゃねえかよ」
「だな。じゃ、センスの話にしようぜ。相手は扇子なだけに」
「そのまんまじゃねえかよ」
「そのまんまだろうとなんだろうと、おれは今ちょうど、センスのことについて考えているところなんだ」
「ほうほう。で、答えは出たのか?」
「出た。センスの悪い輩とは金輪際関わらない」
「そりゃ、大正解だ」
「うん」
「センスの悪い奴はなにをやっても駄目だからな。センスの悪いやつは大抵の場合、恥知らずだし」
「だな」
「で、センスとはなんだと思う?」
「さて、そこだよ。そこ。センスってのは一体全体なんなんだ?」
「情報と知見の組み合わせ方だ」
「情報と知見の組み合わせ方」
「そうだ。情報と知見の組み合わせ方がセンスの善し悪しを決定する。情報弱者、デジタル・ディバイドは論外として、いまや情報、知見はPCとネットの応分のスキルさえあれば大概は手に入れられる。センスの問題はそこから先に、得た情報、知見をいかに組み合わせるかということだ」
「だな」
「そして、その組み合わせ方の善し悪しはすべて内なる真言が決定する。内なる真言を持たない者は情報弱者と五十歩百歩ってこった」
「センス、パラダイム、エピステーメー。それら中にあるモノとコトを統合するのが内なる真言ということだな」
「まさにな」
「で、この扇子は内なる真言を持つ者の作ということでFAなわけか?」
「だ。おまえにも1本くれてやる」
「ありがてえ。最近、妙にいやな汗をかくことが多かったもんでね。遠慮なくもらっとく」
「もらっとく? ただで?」
「カネとんのかよ!」
「おれのマネー・センスについちゃあ、よく知っているはずだ」
「ひでえ!」
「ダーティ・センス、ヒール・センスについても」
「相変わらず鬼だなあ」
「鬼こそは無駄無様不調法不作法を一切合切省いた者のことである」
「鬼のいぬ間に命のセンス磨きをしなきゃな」
 二人同時に笑い声をあげたとき、伊達帯に鳥獣戯画の描かれた京扇子を白刃のように挟んだ蘭奢待の女が格子戸の隙間から入ってきた。蘭奢待の幻惑蠱惑の濃密な香りが部屋を押しつぶしそうなほどに広がった。また命が削られる。

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by enzo_morinari | 2013-08-12 14:31 | 流儀と遊戯の王国 | Trackback

マイオルカの男と海の賢者

 
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 マイオルカの男と海の賢者はイルカとともに悲しみの青い海を泳ぐ。 E-M-M


 いまでもときどきマイオルカの男の野太い声が耳をかすめる。腕組みをし、トスカーナの青い海を見下ろす分厚い胸板をしたマイオルカの男の姿が眼に浮かぶ。マイオルカの男はトスカーナの海の底でイルカの子守唄を聴きながら、海の賢者・ジャック・マイヨールとともに眠りについている。

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 目を覚ましたマイオルカの男はジャック・マイヨール相手に馬鹿っ話に花を咲かせ、呼吸法や女の口説き方について話し込んでいるはずだ。だが、われわれはもはやマイオルカの男と会うことはできない。当然、話すことも、野太い声と不器用な笑い声を聞くこともできない。マイオルカの男はジャック・マイヨールとともにトスカーナの海の底にいるからだ。その海の底に行くこともかなわない。われわれはふたつの誇り高く美しい魂を失ったのだ。それはローマ帝国が滅んだことよりも人間にとっては大きな痛手となった。

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 かわいそうなマイオルカの男。かわいそうなジャック・マイヨール。ジャック・マイヨールに至ってはクリスマス・イブの前日に死んだ。犯人はわかっている。わかってはいるが手出しはできない。なんてことだ。なんてことなんだ。世界はなんてことになってしまったんだ。世界はあとは腐るだけだ。腐って、溶けてなくなるだけなのだ。

 マイオルカの男と海の賢者を殺したのはおまえだ!

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by enzo_morinari | 2013-07-08 04:46 | 流儀と遊戯の王国 | Trackback