カテゴリ:東京幻食紀行( 2 )

東京幻食紀行(第二回) 凄味の利いた料理人

 
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5年におよぶ浅草時代、パウダー・ブルーのYETI KOKOPELLIで台東区内を走りまわった。愉快な日々だった。「明日」は見えていなかったが、「今日」と「現在」は手づかみで垢むけだった。

2000年の夏の盛り。東上野(旧町名稲荷町)界隈をポタリングしているとき、凄腕の料理人と出会った。「中国料理 仙龍」のオーナー・シェフ、トーゴーさんである。正真正銘の、無垢の、真っ直ぐな天才料理人だ。おまけに吾輩に負けず劣らずの大酒飲みときている。吾輩と気が合わぬはずがない。

椎茸スープ、海老ワンタン・スープ、豚バラ肉のピリ辛、海老玉子かけ御飯、特製味噌チャーシュー麺、特製ちゃんぽん、鶏のぶつ切りの炒め、豆腐と海老の炒め、帆立貝とブロッコリの炒め、あわびの油炒め、あわびの醤油煮 ──。思い出しただけで口の中が唾でいっぱいになる。

トーゴーさんをすごいと思った理由のひとつは、彼がその「天才」を徹底して基本に費やしているところだ。気まぐれで軽佻で向こううけばかりを当て込んだ、「ヌーベル・シノワ」だの「ヌーベル・キュイジーヌ」だの「ヌーヴォー・クッチーナ」だの「新日本料理」だのとは遠く離れて、トーゴーさんはドラスティックに「基本」だけを追い続けていた。「盛りつけ」「見てくれ」に重心が置かれた「上っ面の食いもの」「鼻持ちならないスカした料理」とはあきらかに一線を画していた。

「ヌーベル・シノワ? そんなの知らないよ。新しかろうが古かろうが、料理はうまいかまずいか、それだけだ」

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浅草にはロクな中華屋がなかった(一軒だけ、言問通りと国際通りの交差点の近くにある「華春楼」という店はたいへんにいい)。浅草は中華に関してはまことに貧弱な街なのだ。本当のことを言えば、中華にかぎらず、まともにうまいものを喰わせる店はほんの数軒にすぎない。

トーゴーさんは山谷生まれの山谷育ち。ドスが利いている。こわもてである。腹もすわっている。そして、これが肝心なところだが、舌がすごい。これは天からの授かりものという以外に言いようがない。本人もそう言っていた。もっとすごいのは、そのみずからの「天分」をトーゴーさんが極めて客観的に分析し、認識しているという点である。

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才能はみずからその才能に気づいた者にのみ花開き、実を結ぶ ── トーゴーさんはこの言葉どおり、御自身の才能にこどもの頃にすでに気づいていたという。そして、料理人としての修行を重ねるうち、その「才能」に磨きをかけると同時に、「才能」の意味を客観的に分析することを心がけたという。

「一度や二度うまくできてもだめなんだ。再現性がなけりゃ、それはとどのつまりは素人料理にすぎないからね。プロは100回つくったら、100回全部うまくなきゃいけない。そうでなけりゃ、お客さんからお金はもらえないよ」

そう言って、トーゴーさんは冷凍室で氷結寸前まで冷やしたビールをぐびっと飲み干した。「中国料理 仙龍」は上野方面から浅草通りを来ると、稲荷町交差点の一本手前の道を右に入ったところにあった。店構えについてはなにも言うまい。店構えを喰うわけではない。うまいものを喰うのだから。

「うちはどこにでもあるラーメン屋みたいな店に見えるけど、本物の中国料理店だ」

言うと、トーゴーさんは薄い胸を張った。胸の張り具合がトーゴーさんの料理人としての「誇り」の重さを物語っているように思えた。

まことに残念ながら、出会って2年後の2002年の春の盛り、トーゴーさんは急逝した。肝臓破裂。上野公園でトーゴーさんの和洋中取りまざった絶品料理を肴にして大酒を食らう恒例の花見の宴の最中のことだ。大酒飲みにふさわしい壮絶な死にざまだった。そのときの料理が本当にトーゴーさんの「絶品」となった。返す返すも惜しい。本当に惜しい料理人を世界は失ってしまった。
 
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by enzo_morinari | 2013-01-20 00:30 | 東京幻食紀行 | Trackback

東京幻食紀行(第一回) 西麻布「ひらまつ亭」

 
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東京幻食紀行はいまはなき料理、料理人、料理屋・食堂・レストランを幻視する。第一回目は西麻布の通称「ビストロ通り」にあった「ひらまつ亭」だ。店名が変わっておなじ場所にいまもあるようだが、それは吾輩にとっての「ひらまつ亭」ではない。

単身パリに乗り込み、日本人初のミシュランの星を獲得して、一躍、料理界に名を轟かせた平松宏之がまだ無名に近かった頃。当時、平松宏之は「ビストロ通り」と呼ばれる西麻布の裏通りで小さなビストロ(安食堂)をやっていた。かわいらしい奥さんといっしょに。

平松は若々しく初々しかった。吾輩自身も若かった。名もなき小僧っ子、若造の一人にすぎなかった。3年半、ほぼ毎日昼めしを喰いに通った。うまかった。腹いっぱいになった。「ひらまつ亭」は吾輩が「食」にかかわる味覚、嗅覚、視覚、聴覚を鍛える数少ない修練場のひとつだった。

吾輩は「ひらまつ亭」で、高橋徳男が生きていた頃の全盛期の「アピシウス」で、カミソリのような切れ味を持つ料理人、勝又登の「ビストロ・ド・ラ・シテ」と「レストラン・オー・シザーブル」で、鼻持ち野郎のジャック・ボリーがいた頃の「ロオジェ」で、ベルナール・パコーの片腕として名作名品の『牛のしっぽの赤ワイン煮込み』と『エイひれと春キャベツの蒸し煮シェリー酢バターソース』と『赤ピーマンのムース』で世界中の美食家をあっと驚かせた斉須政雄の「黄金の丘」で、店主が「おいしいねーおいしいねー」を連発する「北島亭」で、パンクでパンクラス並みのド迫力料理を喰わせる五十嵐保雄全開の「クラブNYX」で、舌を鼻を眼を耳を鍛えた。磨いた。吾輩の「食」の鍛錬はほぼ成功した。

ほかにも何軒か修練場はあったが、店じまいするか店主が鬼籍に入るか様変わりするかして、ほとんどが「幻の味」になってしまった。当時のまま残っているのは三田の「コート・ドール」と四谷三栄町の「北島亭」くらいのものか。

ムッシュ勝又は東京に愛想をつかして繁盛店をさっさと引き払い、箱根の山奥でオーベルジュをはじめた。最近、丸くなったと風の便りに聞くが、棺桶に足を突っ込んでいても切れ味鋭くあってほしいものだ。また、勝どきの「クラブNYX」で鮮烈強烈な料理を出していた五十嵐安雄は銀座に「ル・マノアール・ダスティン」をオープンした。

「オサレ・ランチ、ステキ・ランチ、オサレ・カフェ、イケメン・カフェ」なんぞという故障した日本国語を恥ずかしげもなくさらすボンクラ・ポンコツを筆頭に、「きょうは○○でランチ♪」だの「今夜は●●でディナー!」だのという鼻持ちならないバカ主婦どもとは経験も哲学もレベルも桁外れに異なる本筋のグルマンどもの舌を五十嵐安雄はいまもうならせている。

五十嵐保雄の「豚のファルシー」を初めて目にしたときは目玉が飛び出し、鼻がふくらみすぎて裂けそうになり、舌が悦んで踊りだすくらいにびっくりした。途轍もない料理人が現れたものだと思った。食後、勝鬨橋の欄干にもたれて号泣するほどだった。「こんなにすごい食い物があるなら、世界はまだ捨てたものではない」と思った。五十嵐安雄の成功は当然のことであるし、まことに喜ばしい。問題は平松宏之だ。

泡の時代の末期、広尾に「レストラン ひらまつ」をオープンし、「ガラ・ディナー」などという大仰御大層なイベントをやるようになってから平松宏之の料理には距離を置くようになった。西麻布のビストロ時代、「おいしいものを安い値段でお腹いっぱい食べてもらいたい」とことあるごとに言っていた平松とは別の顔の平松がそこにはいた。画商をやっている胡散臭いことこのうえもない実兄にでもたぶらかされたか。

料理をムニュ(定食)ではなくスペシャリテ、アントレ(単品)で、肉魚野菜、調理法の別を問わずに気合いの入っていそうな料理はためらいなく注文し、ワインを2本ばかり飲んで二人で約10万円。これを高いとみるか安いとみるか。吾輩は高いとみる。

ミラノ・スカラ座を鑑賞すればほぼ同額のカネがふところから飛んでいく。それと同レベルの感動と悦びはある。それ以上かも知れない。「食」をたのしむというシーンを日常の「ケ」とは異なる人生の「ハレ」の場としてとらえ、料理のうまさ、サーヴィングの質の高さ、食をたのしむための総合的な演出のすばらしさに対してなら10万円を出して「レストラン ひらまつ」ですごす2時間なり3時間は決して高くはない。それでも一回のめしに10万円を払える者がいったいどれほどいるか? いるとしたら、それはよほどの能天気かゼニカネの置場に困っている者くらいのものだろう。吾輩は脳内に花畑が広がってはいるが能天気ではない。雨が好きであるし。ゼニカネの置場に困る御身分にはやくなりたいものだ。

ミラノ・スカラ座は年に1度、もっと言えば10年に1度、あるいは一生に1度みればいい。しかし、「喰うこと」は日々、毎朝、毎昼、毎夜ついてまわる。1回10万円の「めし」は庶民、普通の人々には一生縁がないということだ。

軽やかにラディション・シルブプレし、1回のめし代に10万円をぽんと支払い、ギャルソンとすれちがいざまにほかのだれにも気づかれないようにプルボワを握らせることのできるおセレブさまに主眼を置いた商売。それはそれでひとつの道だろう。好きにやるがいい。だが、吾輩はコミットメントしない。

広尾の「レストラン ひらまつ」には何度か相手の「おごり」で足を運んだが来ている客は鼻持ちのならない輩ばかりだった。先週は「ロオジェ」、ゆうべは「分とく山」、来週は「銀座 久兵衛」とあっちこっちで宣わっている。虫酸が走り、はらわたが煮えくりかえった。みれば、どいつもこいつも小学生レベルのテーブル・マナーだ。ナイフとフォークの使い方さえなっちゃいない。

「ナイフを何度も何度も往復させて肉を切るんじゃない!」
「フォークは添えるだけにしろ。ナイフとフォークの交点で肉を切れ!」
「フォークを肉に突き刺すんじゃない!」

店が一流でも客が二流ならいつかその店は二流になる。三流以下にさえなり、消えてなくなる。いまの「レストラン ひらまつ」からは本物一流の「喰い手」は育たない。客層は羽振りのいい成金野郎や乙にすましたおセレブさまがたやそれにお追従するおっちょこちょいやライフ・スタイル自慢に日も夜もないポンコツボンクラヘッポコスカタンデクノボウばかり。そんなような輩は腐るほどいるが、どう贔屓目にみても本物の一流はいない。

上っ面上っ調子おべんちゃらきれいごとで塗り固められたツラはまちがいなくめしをまずくする。平松宏之の本物一流の料理が台無しである。

CEO? それってうめえのか?「キュイジーヌ・エグゼクティブ・ディレクトール」の略でもあるのか? ちがうだろう。CEOとやらの椅子に座ってふんぞり返っていたところで、うまいソースができるわけでもあるまい。

東海の小島の猿がヨーロッパのクラース、文化に食い込み、対等の勝負をするのにCEOなどという肩書きと看板はいささかも必要ない。必要なのは「たった一人で炎の中心に立つ仕事」をする覚悟である。そこがホンモノかただのカスかの分かれ目だ。料理人には銀座テーラーで誂えたスーツも要らなければ、ジョン・ロブのエラスティック・サイデッドを履くことも無用にして不要である。

いまの段階で吾輩は断言しておく。「レストラン ひらまつ」は莫大な負債を抱えてつぶれる。そして、期待する。「おいしいものを安い値段でお腹いっぱい食べてもらいたい」と言って幼子のように眼をキラキラ輝かせていた平松宏之の復活と復権を。

料理人の王道を外れてゼニカネに血道を上げるのは山出しグラン・ペゾンの三國清三と舶来かぶれのサザビー爺さんに誑しこまれて「売れりゃあいい」とばかりにおスウィーツ屋、甘味処、菓子屋に商売替えした漁師小倅の熊谷喜八に任せておけばいい。

いまのままでは「天使の厨房」の皿洗いさえやらせてはもらえまい。料理の神サマの眼をごまかすことはできない。たとえアントナン・カレームやオーギュスト・エスコフィエであってもだ。

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by enzo_morinari | 2012-11-27 10:30 | 東京幻食紀行 | Trackback