カテゴリ:YOKOSUKA DREAMIN'( 2 )

冷たい雨の夜のヨコスカの Rainy Night in Georgia

 
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2007年の秋の終りのことだ。冷たい雨が降る土曜の夜だった。最初で最後の別れを告げあう夜と朝と昼と夜をともにすごした女が乗る最終の東京行きの横須賀線を見送り、私は世界の御機嫌と馬鹿さかげんをうかがい、計測するために人影もまばらな横須賀駅前にしばしたたずんだ。

国道16号線とヴェルニー公園と巨大な2隻の潜水艦が停泊する軍港をみやり、耳をすます。

雨の音。車のクラクション。シャッターが降ろされる音。怒鳴り声。罵りあう声。霧笛。また別の霧笛。アラーム音。携帯電話の呼び出し音。世界が軋む音。世界が震える音。世界のため息。世界の嘆き。

それらにまぎれ、どこからか Rainy Night in Georgia が聴こえてきた。初めは雨音にかき消されて聴きとりにくかったが、徐々にくっきりとしてくる。

Rainy Night in Georgia. ブルック・ベントン。

まちがいない。音のありかを求めて眼を走らせる。Rainy Night in Georgia は駅前ロータリーに停まっているパウダーブルーの1958年式フォード・エドセル・サイテーションから聴こえてきた。雨にもかかわらずトップは格納されていて、運転手は濡れるにまかせていた。

黒人の大男だった。Rainy Night in Georgia はリピート・セットしてあるらしく、ブルック・ベントンが「スーツケースを置いてたたずみ、夜をやりすごせる暖かい寝ぐらを探す。ひどい雨だ。君が”だいじょうぶ。心配ない”と僕を励ます声が聴こえるようだ」と歌いだすのを聴くのは気づいてから4回目だった。

冷たい雨の夜のヨコスカ。冷たい雨の夜に繰り返し聴こえるブルック・ベントンの Rainy Night in Georgia. そして、ずぶ濡れの黒人の大男。これほどさびしくて心あたたまる取り合わせにはそうそうお目にかかれない。

私は思いきって大男に話しかけてみることにした。まさか獲って喰われるようなこともあるまい。最悪でもせいぜい世界の終りを見届けられなくなるくらいのことだ。どうってことはない。サイズの小さな「世界の終り」なら、もうすでに世界中のあちこちで見てきた。高くついた「世界の終り」もあれば、お買い徳な「世界の終り」もあれば、まがいものまやかしインチキの「世界の終り」もあれば、羊頭狗肉の「世界の終り」もあった。今回だって高いか安いかのちがいがあるだけだろう。そう自分に言いきかせた。

「ハイ。どうかしたか? こんな冷たい雨の夜にずぶ濡れで Rainy Night in Georgia を聴いているのはただごとじゃないと思って」
「 ── ありがとう。心配してくれて」
「とにかく、すぐにトップを出すべきだと思う。エドセル坊やだってそう言ってる」
「ああ。そうだな。あんたの言うとおりだ。オールドボーイがかわいそうだ。オールズモビルがレモンを丸ごと1個噛みつぶしたような顔がさらに醜く歪んでやがる」
「ポンコツ・マクナマラが化けて出るぜ」

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大男はとても大きな手を差しだした。私も手を差し出し、握手した。手を握りつぶされてしまうんじゃないかというくらいすごい力だった。実際、大男はそれまでの人生で5個くらい手を握りつぶしてきたと思う。

「東京からガールフレンドが来るはずだったんだがすっぽかされたみたいだ。電話にも出ない。メールの返事もない」
「そりゃお気の毒に。ガールフレンドはいまごろ禿おやじの腕枕で大鼾をかいているところだろう」
「バカ言うな!」
「いや、それが世界というものの実体だ」
「そうか ── 。おれはブルック・ベンソン軍曹。ブローやホーミーはおれを泣き虫で音痴の大鹿ブルックと呼ぶ。あんたの名前は?」
「わたしの名は樽。人はわたしをリアル・マッコイ・バレルと呼ぶ」
「リアル・マッコイ・バレル。イカした名前だな」
「ベンソン軍曹、あんただってあと1文字でブルック・ベントンじゃないか。惜しいな。実に惜しい」
「その件についてはドブイタ・ストリートで酒でも飲みながらというのはどうだい? もちろん、1杯目はあんたのおごりで。2杯目からはおれのおごりで」
「とてもいい条件の魅力的なオファーだけど、フィフティ・フィフティでいこう。乞食酒は飲みたくないんでね」
「乞食酒か。初めて聴くよ。しかし、あんたが言いたいことはすごくよくわかる。オーケイ。そうしよう」
「ガールフレンドのことはどうするんだ?」
「彼女はたったいまおれの怒りの地雷を踏んでおっ死んだ。GAME OVER, GAME SET. おしまいだ」
「いいのか? あとで後悔しないか?」
「兵士は後悔しない。後悔している暇があったら引き金を引かなきゃならない。そう訓練されてきた」

大鹿ブルックはそう言ってから、私にエドセル坊やに乗るようにと頭をふった。

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コイン式のモーター・プールにエドセル坊やを停め、われわれはドブ板通りの『THE MORRIGAN'S』というアイリッシュ・パブに入った。土曜の夜とあって店の中は客でごった返していた。

「だいじょうぶ。おれの席はいつも確保してある」と大鹿ブルックは言い、私の肩を叩いた。カウンターの一番隅だったが確かに席はあった。
「ジム・ビームの白ラベルをトリプルのオン・ザ・ロックスで2杯」
大鹿ブルックのひどい南部訛りの英語に耳が慣れるのに30分かかった。大鹿ブルックのひどい南部訛りの英語に耳が慣れはじめたとき、大鹿ブルックが急に真顔になって言った。
「アフガニスタンはひどいところだ。仲間が8人死んだ。あんたたち日本人に言ってもわからないだろうけどな」
大鹿ブルックは決して私を責めているのではないことはわかったが、私自身が日本という国の小狡さに怒りさえ感じていた。
「あんたの言うとおりだ。この国は血も汗も出さずにカネだけ出してあとは知らんぷりの国だ。情けなくなる」
「おっと。政治と宗教の話はこの店では御法度だ。壁の張り紙を見てみな」
「政治と宗教の話はするな!」と確かに書いてある。
「オーケイ。わかった。この土砂降りの雨の中を追い出されちまっちゃ、たまったもんじゃない。やめるよ。ところで、1文字ちがいとはな。ブルック・ベントンと」
「そうなんだ。ガキの頃からそう言われつづけてきた。死んだ父親がブルック・ベントンとクラスメイトで、『Rainy Night in Georgia』が大ヒットした年におれが生まれたもんでね。あやかったというわけだ」
「ということはあんたは1970年生まれか?」
「そうさ」
「あんたが生まれた年にはおれはすでに5人の子持ちだ」
「うそだろう?」
「うそだ。5人も子供がいたら土曜の雨の夜に酒場になんかいやしない」
「たしかに。たしかにあんたの言うとおりだよ、リアル・マッコイ・バレルの旦那」
「さて、本題に入ろう。もし、もしだが、名前がブルック・ベントンだったらちがう人生になったと思うか?」
「思わないね。白人だったら変わっていたかも知れないけど。たとえプア・ホワイトでもね」
「いやなことを訊いちまったな」
「いや。あんたがあやまる理由なんかこれっぽっちもないよ。どんなふうに思われようとこれがおれの人生だし、これまでどおりゲームをつづけていくしかない」

そう言った大鹿ブルックの眼に諦めと絶望と悲しみが宿っていたことはいまでも忘れない。

われわれは明け方近くまで THE MORRIGAN'S で飲み、おしゃべりをし、ジュークボックスでブルック・ベントンとトニー・ジョー・ホワイトとランディ・クロフォードの歌う Rainy Night in Georgia をそれぞれ5回ずつ聴いた。途中、1度だけエリック・クラプトンの『ダニーボーイ』がかかったが、それはアイリッシュ・パブなんだから当然として、Rainy Night in Georgia のヘビー・ローテンションに異議申し立てをする者は一人もいなかった。たぶん、あの夜は世界中のだれの心にも土砂降りの雨が降っていたんだろう。少なくとも THE MORRIGAN'S にいる客たちの心の中には。

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大鹿ブルックとはその後、彼がヨコスカにやってくるたびに会い、酒を飲み、めしを喰い、話をし、音楽を聴いた。もちろん、一番聴いたのはブルック・ベントンの Rainy Night in Georgia だ。2週間に一度くらいのペースでメールのやりとりもしていたが一昨年の秋頃からぷっつりとメールも電話も手紙も来なくなった。

つてをたどって大鹿ブルックの消息を調べたところ、彼は2011年の11月26日にアフガニスタンのカブールで戦死していた。ゆうべ、消息を調べだしてから2年近くもかかってやっと返事がきた。わかったのは大鹿ブルックが2011年の11月26日にアフガニスタンのカブールで戦死したことだけだ。大鹿ブルックの墓がいったいどこにあるのかさえわからない。尋ねても教えてくれないだろう。「2011年の11月26日にアフガニスタンで戦死したこと」すらも本当は軍の機密情報だそうだ。お手上げ。GAME OVER, GAME SET. またひとつゲームが終わった。

最後に会った夜にした「次に会うときは一晩中トム・ウェイツを聴いて酔いどれよう」という約束は果たされないままゲームは終りを告げた。『Drunk on The Moon』と『Grapefruit Moon』と『Tom Traubert's Blues』をいっしょに繰り返し聴きながら酔いどれたかったぜ、大鹿ブルック。とても大きな心残りができちまった。

ブルック・ベントンの Rainy Night in Georgia. トニー・ジョー・ホワイトでもランディ・クロフォードでもグラディス・ナイトでもレイ・チャールズでもなく、ブルック・ベントンの Rainy Night in Georgia.

この冬のあいだはずっと聴くことにしよう。何度でも。何回でも。繰り返し繰り返し。そうすることが大鹿ブルックへのせめてもの弔いだ。

泣き虫で音痴の大鹿ブルック。聴いてるか? 雨音を。ブルック・ベントンの Rainy Night in Georgia を。
雨だ。また雨が降ってきた。激しく冷たい雨が。大鹿ブルック、おまえの涙か? もしそうなら、いくらでも泣いていい。泣いていいが、おれは泣かない。泣き出せば世界中が洪水で水浸しになってしまうにちがいないから。だから、おれは泣かない。たぶん。

ネオン・サインがまぶしい。イエロー・キャブと乗り合いバスが夜を行きすぎてゆく。はるか遠くに聴こえる夜汽車の汽笛が世界の終りと世界の果てを目指して突き進む悲劇のリフレインに聴こえる。

世界中で土砂降りの雨が降っているみたいな気分だ。世界中で土砂降りの雨が降っているみたいな気分だ。世界中で土砂降りの雨が降っているみたいな気分だ ── 。

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Rainy Night in Georgia/Lyrics & Write by Tony Joe White

Hoverin' by my suitcase, tryin' to find a warm place to spend the night
Heavy rain fallin', seems I hear your voice callin' "It's all right."
A Rainy Night in Georgia, such a Rainy Night in Georgia
Lord, I believe it's rainin' all over the world
I feel like it's rainin' all over the world

Neon signs a-flashin', taxi cabs and buses passin' through the night
A distant moanin' of a train seems to play a sad refrain to the night
It's a Rainy Night in Georgia, such a Rainy Night in Georgia
And Lord, I believe it's rainin' all over the world
I feel like it's rainin' all over the world
How many times I wondered
It still comes out the same
No matter how you look at it or think of it
It's life and you just got to play the game

I find me a place in a box car, so I take my guitar to pass some time
Late at night when it's hard to rest
I hold your picture to my chest and I feel fine
But it's a Rainy Night in Georgia, baby, it's a Rainy Night in Georgia
Lord, I believe it's rainin' all over the world
I feel it's like a rainin' all over the world, kinda lonely now
And it's rainin' all over the world
Oh, have you ever been lonely, people?
And you feel that it was rainin' all over this man's world
You're talking 'bout rainin', rainin', rainin', rainin', rainin',
rainin', rainin', rainin', rainin' rainin', rainin', rainin' ──


かくして、『YOKOSUKA DREAMIN'』は静かに終りを告げる。「牛喰いどもの酒」を浴びる日々は果てなくつづく。


Rainy Night in Georgia - Rod Stewart
 
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by enzo_morinari | 2013-09-21 03:12 | YOKOSUKA DREAMIN' | Trackback

YOKOSUKA DREAMIN'#1

 
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 金持ちの団塊男は『言語にとって美とはなにか』で呪法と変容する。 E-M-M

 M-Dの『ビッチェズ・ブリュー』を愛する男は孤独に耐えきれなくなっていた。 E-M-M


 いま、横須賀の軍港を目前にするスターバックスのシーサイドビレッジ店の2階のテラス席にいる。夏の始まりを告げる乾いた風が心地いい。巨大な潜水艦が3隻、星条旗がたなびく巡洋艦が5隻、最新鋭のイージス艦が2隻停泊している。まさに軍港だ。そして、国際政治のいくぶんかを象徴する風景でもある。
 30分ほども前から隣りの席の人物が気になって仕方ない。年の頃60代後半から70代前半。まちがいなく団塊世代だ。身なり服装からみていかにも裕福そうだ。腕時計はパテック・フィリップのカラトラバ。淡いブルーの麻のパンツ。素足にはトップサイダーのネイビーのデッキシューズを履いている。元町若松屋で誂えたインド綿の白いBDシャツ。BDシャツのすそを外に出し、オフホワイトのサマーセーターを肩から羽織っている。髪型はクルーカット。中々の男前。眼鏡はサビルロウのSR-エグゼクティブ。加山雄三と村上春樹とワイルドワンズの融合体だと思えばほぼまちがいない。問題は彼の表情には爽快さ、明るさがないことだ。深刻そのもの。苦悩と痛みがあらわれすぎている。身なり服装とふさわしくない表情の原因は彼が読んでいる書物、あるいは読書自体にあるのではないかと私は考えた。気づかれないように書名を確かめる。吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』だった。
 私はあやうく椅子から転げ落ちそうになった。功成り名を遂げた金持ちの団塊の男が日曜の夕暮れに海に面したスターバックスのテラス席で吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』を読んでいるというのは、まちがいなく異質な風景であるように思われた。吉本隆明に特別の思い入れでもあるか、逆に強い憎しみを持っていなければありえないことだ。
 彼の姿は読書というよりも苦行に勤しむ修行僧にみえる。痛々しいほどだ。眉間の皺、ときおり吐き出す嘆息のような呻き、ごく小さく呟きも聴こえる。呪文のようだ。『言語にとって美とはなにか』を呪法の書として読んででもいるのか? いや、そんな話は聴いたことがない。しかし、世界は思っている以上に広く、想像を遥かに超える風変わりな出来事が起こる。今私が目撃しているのも「広い世界に起こった風変わりな出来事」のうちのひとつかもしれないのだ。このあと、私の興味本位から始まる些細な出来事は思いもよらない方向へと急展開をみせ、想像を遥かに超える地点に着地する。

 
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 M.プルーストの『失われた時を求めて』を地図に男は本当の自分を探していた。 E-M-M


「なぜそれほど深刻に『言語にとって美とはなにか』を読まれていらっしゃるんですか?」
 無礼を覚悟でたずねた。彼が激怒し、テーブルをひっくり返し、殴りかかってくるのではないかと気が気でなかった。いつ/どこで/なにを/どのように読むか/読まないかはきわめて個人的な問題だからだ。他者がとやかくのことを言う領域には属さない。『草枕』を渡良瀬川の清流における午睡のための枕がわりにするのも自由だし、iPad/iBookを愛を囁きあいながら食す湯豆腐の鍋敷きにするのも自由だ。そこにはことの善し悪し、正邪の問題はいっさいない。あるのは自らの内なる声と読まれる/読まれないテクストがいかに響き合うかという問題だけである。
 ウンベルト・エーコ教授の『薔薇の名前』において修行僧たちが向かい合っていたのは「書物」「テクスト」だろうか? 私はそのようには了解しない。彼らが向かい合っていたのは教会という名の権威、さらに言うならば「中世」という暗黒、闇であるというのが私の考えだ。ことほど左様に、書物/テクストのたぐいは時代/世界の権力権威と不可分のものであるととらえることもできる。このちっぽけでばかでかくて広い世界には読むことを拒否するテクストすら存在することを踏まえながら私はテクストと向きあってきた。にもかかわらず、今自分がしていることはそれらとはあきらかに矛盾する。しかし、男の切迫感、深刻さが私の中の「掟」「流儀」を破らせた。男の答えは意外なものだった。
「『失われた時を求めて』を地図にするためのプロセスだからですよ。深刻にならざるをえない」
 男は言い、サビルロウのSR-エグゼクティブの奥にある青みがかった瞳をぎらりと輝かせた。「あなたならその意味を理解できるはずだ。虹のコヨーテさん。いえ。エンゾさん」
 血の気が引き、全身が総毛立った。
「わたくしとしてはビッグ・フェイス・ガジン・フロム・アプリコットアイランドさんも一緒だと都合がいいんですがね」
 男のテーブルに二羽の雀がやってきて男の血色のいい顔を見上げている。男の表情は『言語にとって美とはなにか』に目を落としていたときとは打って変わって、とても穏やかで慈しみにあふれていた。私はその光景を目にしながら徐々に冷静さを取りもどしていた。そして、思った。
「物語の開き方としては悪くない」
 同時に、ガジンからの着信を知らせるArcade Fireの『We Used To Wait』のメロディーが鳴った。
 

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 男に断り、電話に出た。「朝からずっと胸騒ぎがひどいんだ」とガジンは言った。
「あいかわらず、おまえはよく鼻が利く。その”胸騒ぎ”の件で、今取り込み中なんだ。詳しいことは折り返し電話する。おれから連絡があるまでSM遊びと調教は控えて、『失われた時を求めて』と『言語にとって美とはなにか』をおさらいしておいてくれ」
 きわめて察しのいいガジンは「了解」とだけ言って電話を切った。私は男に中座を詫びてからたずねた。
「あなたは『失われた時を求めて』を地図にしていったいどこに行こうとしているんですか?」
「今の段階ではわからない。実際に『失われた時を求めて』を地図にして目にしてみないとね」
 男はそこで小さなため息をひとつつき、視線を落とした。男はつづけた。
「人類はまだ『失われた時を求めて』を解読できていないんです。誰一人としてです。『言語にとって美とはなにか』は『失われた時を求めて』を解読し、地図にするための羅針盤、参考書なのです」
 男は経年によってところどころ黄ばんでしみの浮いた勁草書房版の『言語にとって美とはなにか』を撫でながら軍艦の浮かぶ海に目をやった。詳細が地図に載らない自衛隊とアメリカの軍事施設が密集する名もなき岬の緑が目にしみた。私はさらにたずねた。
「思惑どおりに、『失われた時を求めて』があなたの仰る”地図”になりえたとして、その地図を頼りにあなたはどこを目指すんですか?」
「”地図”を実際に見てからでないとわからないというのは先ほど申し上げたとおりです。おそらく    おそらくですが、わたくしはその”地図”で本当の自分を探しはじめるのではないかと思っています。正確にはエンゾさん、あなたとガジンさんの二人に探してきていただくということになるでしょうが」

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 男はブルーベリーのイングリッシュ・マフィンを小さくちぎり、テーブルの上の雀に与えた。雀たちのなつき方から、男がこのテラス席に頻繁に来ていることがうかがえた。私はこの「物語」が開かれた時点から引っかかっていた疑問を口にした。
「ところで、あなたはなぜ私やガジンのことを御存知なんでしょうか?」
「わたくしはあなたの『Signifié/Signifiant』と『アノニマス・ガーデン』の熱心な読者ですよ。あなたは知らないでしょうがね。きっかけは”横須賀””THE MORRIGAN'S””ドブ板通り”のキーワードでGoogle検索したときにあなたが書かれた『冷たい雨の夜のヨコスカのRAINY NIGHT IN GEORGIA』がヒットしたことでした。あれは確か2012年の秋のことだった。あなたの『冷たい雨の夜のヨコスカのRAINY NIGHT IN GEORGIA』はとてもよかった。不覚にも涙を禁じえませんでしたよ。以来、わたくしはずっとあなたの追っかけです。時折、あなたが茶目っ気たっぷりに載せるあなたの画像はすべて保存してありますよ。だから、きょうあなたがここに来られたときもすぐにわかりました。Facebookには驚くほど大量の画像がUPされてますしね」
 男がとても気持ちよさそうに笑った。私もだ。「ガジンさんについては彼とあなたとのコメントのやりとり    あれもスリリングで知的で茶目っ気があってとてもおもしろかった    、そして、つい先日のUSTREAMの放送も聴かせてもらいましたよ。DLして一日に一度は聴いてます」
 私の当初の疑問はほぼとけた。
「申し遅れましたが松平です。わたくしにもなにかいい名前をつけていただけませんか?」
「少し時間をください」
 私は松平の顔をみ、全体像を詳細に観察した。松平にふさわしい名前はすぐに浮かんだ。
「では、きょうからあなたは”苦悩するビーバー・カモノハシ”です。どうでしょう?」
「いいですね。実にいい。ビーバーとカモノハシの見分けがつかない愚者たちに翻弄されつづけてきたわたくしの人生をみごとに象徴している」
 苦悩するビーバー・カモノハシは握手を求めてきた。あたたかくやわらかな手だった。私は苦悩するビーバー・カモノハシの手をやや強く握りしめながら言った。
「私がきょうここへ来るという偶然がなければこういう展開にはならなかった」
「エンゾさん、それはちがいますよ。偶然なんかではありません」
 苦悩するビーバー・カモノハシの手が固く冷たくなった。
「どういうことでしょう?」
「いずれわかります。いずれね」

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by enzo_morinari | 2013-06-28 15:57 | YOKOSUKA DREAMIN' | Trackback