異形の王 アレクサンドル・カレリン

 
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霊長類最強の男が負けた日
2000年9月27日、シドニー・オリンピック、レスリング・グレコローマン・スタイル130kg級決勝。霊長類最強の男が負けた。それもノー・マークの、ただ体重が重いだけの凡庸な若者に。

不敗神話はついに終止符を打った。格闘王・前田日明をして「どの分野でも強い人間はいるが、カレリンはまちがいなく『最強』だ」と言わしめた「最強の男」は、表彰台で終始、視線を落としたままだった。マットを降りるとメダルを首から外し、無言のまま会場をあとにした。

この日が来るのは予想していた。予想はしていたが、いざカレリンの敗北を目の当たりにすると、つらかった。目頭が熱くなった。

「キングコング」「霊長類最強」と言われる男は苦境のうちにシドニー・オリンピック本番を迎えた。痛めた首と背中の怪我は完全には癒えていなかった。選手生命にかかわる負傷だった。リハビリに専念するため、負傷後の国際大会はすべて欠場した。4月の欧州選手権も勝ちはしたが、はなはだしく精彩を欠く試合内容だった。「これでキングコングはただのゴリラだ」と口さがない人々は噂しあった。

世界選手権9連覇を成し遂げた後、ロシア下院選に出馬。圧倒的な支持を集め、当選した。しかし、下院議員になったことが仇となり、トレーニングの時間が激減した。五輪開催中に33歳になる肉体に、「文武」の両立は難しかったということだろう。

予選リーグで、カレリンは二試合を戦った。初戦では「カレリンズ・リフト」はすべて空振りに終わった。よくない兆候だった。しかも、試合のさなか、喘ぐように肩で息をし、何度も苦しそうな表情をみせた。そのような醜態はかつてカレリンが絶対に見せることのないものだった。困憊のカレリンにもはや「最強不敗の男」の迫力はなかった。

シドニー・オリンピック、グレコローマン130kg級のファイナルは退屈凡庸きわまりない試合だった。対戦相手のルーロン・ガードナー(米国)はカレリンのペナルティによる1ポイントをとったのみで、延長戦の末、判定勝ちした。だが、この試合はガードナーが勝利したのではなく、カレリンが敗北したのだとわたくしは思った。実際、ガードナーのレスリングは華も剛もない、凡庸なものだった。カレリンにしても、伝家の宝刀であるカレリンズ・リフトがまったく決まらず、もどかしさだけが残るレスリングだった。あきらかにカレリンは衰えていたのだ。

オリンピック開幕前からカレリンの敗北は予想していた。シドニー・オリンピック初戦に登場してきたカレリンの姿を見て、わたくしの「予想」は「確信」へと変わった。全盛時の岩石の塊のようなド級ド迫力の筋肉が無惨にたるんでいたのだ。最強の男も「老い」には勝てないということである。

実のところ、シドニー・オリンピックでわたくしがいちばん注目していたのは、YAWARAちゃんでもサッカーのオール・ジャパンでもマラソンの高橋尚子でも陸上のモーリス・グリーンでもマイケル・ジョンソンでもなく、アレクサンドル・カレリンだった。オリンピックの格闘技四連覇という前人未踏の偉業を成し遂げるかどうかより、カレリンがどのように「最初で最後の敗北」を喫するかに注目していた。「相手の腕を取っただけで脱臼させた」という無類無敵の王者の幕引きにこそ、わたくしは魅かれたからだ。

カレリンを倒すにはゴリラに格闘技を教えるしかない
アレクサンドル・カレリンは極寒期には零下80度にもなるシベリアの地、ノボシビルスクで生まれ、育った。出生時の体重7500グラム(!)。こどものころ、アパートの最上階まで120キロの冷蔵庫を一人で担ぐ怪力ぶりだった。レスリングを始めてからは、相手がどんな態勢であろうと強引に持ち上げる「カレリンズ・リフト」を武器に無敗記録を伸ばしていった。けがを恐れてみずから両肩をつき、わざと負けてしまう者さえいた。

「カレリンを倒すにはゴリラに格闘技を教えるしかない」

レスリング選手たちはそう囁きあった。カレリンの前に道はなく、カレリンが歩いたあとに道はできた。前人未踏 ── カレリンのグレコローマン・スタイル・レスリングにおける13年間の足跡はそれを如実にあらわしていた。冬は雪原を走り、夏は大木を担ぎ、湖で5時間ボートを漕ぐ。大自然のエネルギーを吸収する独自のトレーニングに打ち込む姿は、太古の昔、人間がまだ自然とともに生き、大地の息吹を思うぞんぶん吸い込んでいた頃の力強さ、しなやかさを思わせた。

同時代に生きることのできた幸福。「伝説」「神話」を語り継げ
1999年の2月。それまで否定し続けてきたプロレスのリングに上がった。ファイトマネーを五輪を目指す地元の少年レスラーたちに贈るためだ。鋭い眼光、鍛え抜かれた筋肉の内側には、激しい闘争心とは別の熱い思いがある。

カレリンは詩人でもある。ロシア最高峰の体育学アカデミーで修士号をとり、つねにプーシキンの著作と哲学書を携帯し、時間があるかぎり読み耽る。パバロッティをこよなく愛し、プーシキンを愛読する温厚な人柄。驕らず、おおらかな人柄は多くの人々を魅きつけてやまない。将来、「ロシア大統領、アレクサンドル・カレリン」として世界に再登場すると予想するひとも多い。

異形の王はこの敗北を機に引退した。無類無敵の王者は引き際を知る者でもあった。「霊長類最強の男」は静かに表舞台からの退場を果たした。わたくしはこの異形の王を生涯忘れないだろう。そして、この男と同じ時代に生まれ、生きることのできた幸福を味わうことになるだろう。

われわれは確認しなければならない。アレクサンドル・カレリンという150万年の人類史にたった一度だけ出現した「最強の男」と同じ時代に生きたことを。「伝説」「神話」はこの眼で見届けた。あとは語り継ぐのみである。

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by enzo_morinari | 2012-09-30 17:40 | 沈黙ノート | Trackback
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